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未だ生を知らず 焉んぞ死を知らん

眠い人が眠るように
瀕死の人は死を必要としているのです
抵抗が間違いで無駄だというときが いずれきますよ
          by サルバドール・ダリ
不幸な人間にとって
死とは無期懲役の減刑である
          by アレクサンダー・チェイス

どのみち死なねばならぬなら
私は なっとくして死にたいのだ
          by 梅崎春生

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ちなみにタイトルは孔子の言葉。

先日の嘱託殺人の記事を見て(※こちら昔書いたblogの転載です)、記事をざっくりと読んだだけでは、あくまで概要からの個人的な感想、感情的な意見を持ち得るだけで、かといって詳細を知り得たところで、何が良かったのか悪かったのか…ことの是非や真偽を問える立場には無いのだが…

一瞬の感想としては、
もし、医師が患者の願いを聞き届けただけならば、それは医師として人としての立場からの、患者への救済であったのではと…
そう思うし、思いたいけれど、判断するには全容を知らぬものとして、軽率であるし意見を言うには早計すぎる。

これまでにこちらのブログの過去記事でも、
自死はよくないことと何度なく書いてきた。

但し、例外というのはどんな事象にもあるもの。

実のところ、どのような思いや状況下で、その方が自死を選ばざるを得なかったのか、そのようなことが測られ考慮されるべきなので。

生きることからの逃避からなのか、
他者を救うことのための死の選択であるのか等…
そうでないのか否かなど。

例えば、即身仏は自死にあらず…だし。

登山の事故などで、他者を助けるために、繋がったザイルを切って死を選ぶこと、自らを捨て置いて先に行ってくれと頼み、他者の足手まといにならぬよう…自らを助けようとするものの手を振り切り、それを断り、そのように生きることをあきらめることも、自死にあらず。

(そして、彼らの死によって生き延びた人。手を差し伸べること能わず、共に逃げること叶わなかった人というのは、決して彼らを"見捨てた"などという人ではなく、彼らから生を分け与えられ、"命(生きること)を託された人"であるのだ)

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もちろん状況によるが、非常事態(戦争や洗脳や特異な支配下)における、強要されての自死なども自死には当たらない。死することで国や誰かの秘密や名誉を守り、大勢を救うための選択も同じこと。

切腹も自死に当たらないケースがほとんどで、(三島由紀夫のケースは単なる自殺だが) 江戸時代の切腹は単純に言えば刑死であるし。

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自ら死期を選んで旅立つ人の場合は、これまた自死には相当しない。
生の終わりを自分で決めて、引き際を自ら決めた人たちということで…
(とはいうものの、これはある程度の霊的成長を遂げた者の話。
アメリカインディアンの「今日は死ぬのに良い日」など参照のこと)

そして、自殺には仕組まれた死というか…カルマのレッスンによる自殺というのもあり、その死には償いの意味だったり、愛の実践だったり、レッスンは様々で、決してどれも同じ理由ではないけれど。

人類のために、同胞に問いを投げかけるために、世の中を変える原動力となり得るために……自らを贄として、その命を投げ出すことをする、そのような死もあるので。

あるいは身近な人のカルマを背負っての、身代わりの死もあったりするし。そのような自死は自殺(殺人)に当たらず、それを幇助したものも勿論、殺人を犯したことにはならない。

注)この記事に綴っていることは、一般常識の観点からの話では無くて、心霊科学(スピリチュアリズム)や霊的真理の観点からの物言いであることを再度お断りしておきます。

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もちろん、現実世界では法律が重んじられる。だから精神世界というか、霊的なルールと必ずしもそれらは一致しないし、しなくても当然だと言える。それらの間には、なかなか埋められぬ乖離がある。

どちらが正しいとか間違っているとかではなく… 現実世界における、法のあり方についての、ルールとしていることに対する問いでもあるので。

大切なのはこれらのことから、私たちが何を学ぶべきかということ。

死とは何か 命とは 生とは
生きるということはどういうことなのか
死の尊厳とは何か 
生きる自由 死ぬ自由

自由のない身体で生き続けることが、人としての尊厳なのか。
当人でなく、他者の願いだけで生きることに当人の幸福があるのか。
たくさんの管を差し込まれ、がんじがらめに束縛された状態で、
排便も食事もままならぬ状態で生きることは、人と言えるのか。

自分がそのような状態になったら何を望むのか?

生ある単なる肉塊となってしまった、青年の生の尊厳を描いた、
映画「ジョニーは戦場へ行った」を思い出しもするけれど…
(あれは医療従事者への、患者の扱いに対する問いもあったが)

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"生かされるも地獄"という状況もあるのである。それでも生きていたいと望む人も、もちろんいる。そんな状態になっていても奇跡を信じ、生きていて欲しいと願う家族もいる。看病が負担で嵩張る入院費に苦しむ家族もいる。
口にこそできないが、密かに死を願う家族もいる。

家族の意見と当人の意見が、必ずしも一致するということばかりでも無い。

生きていたいと望むこと、
人として扱われていたいと欲する感情に罪は無い。

誰が悪いわけでなく、それぞれが真実なだけ。

だからこそ、落としどころが難しい。

エゴイズムの無いところで考えるべきではあるが、
これが正解という答えは、たぶんどこにも無い。

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カルマのレッスンにおいては、過去の学びとして、どんな状況になっても生きなくてはならない…と言う課題を抱えた人も多いけれど。

そんな地獄の苦しみを、今生で味遭わねばいけない人がいるというのも、
そういう人がいるのも確かに事実だけれども…

でも…そのような苦しみの中にいる人に、「ざまあみろ 因果応報だよ」と言い切るのではなく、そこから人としての在り方、人間としての心でもって、ことの是非を考えて…その人を救済しようと言う、慈悲と慈愛の心を学び実践することこそ、世にも人にも問われていると言う…

そのような苦しみを味わう人を、少しでも減らしていくべきであると言う、一人ひとりへの、全体性の愛の学びが隠れているのです。

何が正しいのか正しくないのか
何が良くて良くなくて悪いのか

はっきりいって正解は無い、間違いも無い。裁きも必要ない、心を裁くことは出来ない。人が人を裁くことなんて、本当は出来ない。その権利なんて 実際のところ誰も持っていない。

この世のルールと、あの世のルールは同じではない。

でも私たちは、この世のルールを守るべきであるし、私たちで作ったり変えていく責任がある。法律は一人ひとりが考えて作っていくべきこと。みんなが声をあげていくべきこと。

裁きの場にも、愛と人間らしい感情は必要だと…

法律は現実社会で起きたことを、現実社会のコミュニティの中で生きる上で、私たちで作ったルールで、司法も警察もそれらを遵守するために存在していて…義務と権利と責任の所在を明らかにするために、機能するべきものだけれども…

だが、法が総てであってはならないし、
法のみが総てを決めることであってはならない。

法は良心のもとにあるべきで、法が人の道や道徳に勝るものであってはならないし、法が総てにおいて、優先される世の中であってはならない。

法は愛ある世界を壊すものではなく、
愛ある世界の秩序を守るものであるべきなのだから。

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さて…自分ならどうしたいと思うだろう…

私なら、たぶん死を選ぶだろう。不自由な肉体を捨てて、次の人生へと旅立つことを望むだろう。自らで選択できれば良いけれど…そうでない場合が厄介とも思うから。

誰かに罪を負わせるのならば、その時はどうすればいいのか悩むだろう。

理想の死としては、アフリカのサバンナで夕陽を見ながら死を迎えて、 動物たちの餌となるのが夢だけども…(完全に息絶えてからね)

とはいうものの、邦人が野生動物に喰われたってニュースになっちゃうか…
それで動物たちが成敗されたらとんだ冤罪だし、やっぱりチベットで鳥葬がいいです。それが無理なら、遺灰は海に撒いて魚の餌にして欲しい。もしくは森の木の栄養分になりたい。

墓はいらない、葬式も戒名も無用です。

死は救いとは言いながら
そうは悟りきれぬものである
          by 大佛次郎
心が整理された者にとって
死は次なる大いなる冒険にすぎない
          by アルバス・ダンブルドア
一代聖教みな尽きて
南無阿弥陀仏に成り果てぬ
我が亡骸は野に捨て獣に施すべし
          by 一遍

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