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罪悪感そして自己設定と制限

その情報を知りたくて、期待してうちにいらっしゃる人には、本当に申し訳ないのだけれど、準備の出来ていない人には過去生の情報とかは、なるべく伝えないようにしているのですね。

とはいうものの、
そもそも、伝えるべき時期が来ていない人の場合は、私のほうにはほとんど何も情報って、降りてこないのですが(教えてもらえない)。

口を滑らしたら困るからなのか、
その人が帰ってから、時差で情報が降りてきたりしてねww

まあ、いずれにしてもその意味では、私は何でもかんでも情報を読めて、すべてのことが理解できると言う、立ち位置の人ではないです。あくまで、そうしたチームの三次元的なポジションとしての道具であり、現象を言葉にして説明したりするだけの、一介のメッセンジャーにしか過ぎません。

でも、まあ…過去生の情報を知りさえすれば、解決するってもんでも無いことの方が人生多いですよね。結局のところ人生というのは、連続するメビウスの輪のようなもの。今表れている問題も、過去生の問題とほぼ同じで、性格や考え方や思い癖が、現実を創っているだけだから。

そして過去生の悪行のツケなんかにしても、今その人がどんな人になっていて、どんな生き方をしているかによって異なるわけです。

目に見えない外部的な干渉や災難となりうる、霊的な現象というのは確かに存在するのだけども、影響を受けてしまうのも当人の問題なので。

ものすごく単純に言ってしまうと、今自分が苦しめられていることって、すべて過去で他人にやったこと。(必ずしもそうではない場合もありますが、それはレアケースとも言えます)

突き放したようなイヤな言い方になってしまいますが、
他人にしたことは遅かれ早かれ戻ってくるのがこの世の法則なので。

そして、それがループになるか否かは、戻ってきたときに自分の人生に起きている、悲劇や不幸をどう考えるかという捉え方次第。抜け出したいなら起きていることの意味を考えて、その結果を真正面から受け止めて、それを自分自身の肥やしとして、成長していくしかないわけです。

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さて最近のクライアントさんで、罪悪感から自分自身に罰を与えている人生を送っている人がいらっしゃいました。もちろん当人は、自分で自分を罰していることなぞ知りません。

その人はたまたま過去生でしたが、罪悪感を抱くのは何も過去生に限ったことではありません。幼少期とか今の母親の胎内でとかでも、エネミーな刷り込みは起きてしまいます。

父親と母親が喧嘩しているのを、胎内で聞いていた赤子は、その気質によっては「私のせいでケンカしている」と思い違いをしてしまうこともあるのです。生まれた後も環境によっては、虐待ではないにしても、ちょっとした親や周囲の言動で、罪悪感を抱えることもしばしばです。

なんていうか、とくに日本人はそういうのが多いような気がします。
自己評価が低くて自己肯定感が持てない人。

霊的成長の過渡期以前のさらに未熟な状態にある人は…(ヤコブの階段上の本能か無意識の状態にある人) どうしても自我が未発達で、アイデンティティをしっかりと持てないから、こういうエネミーの罠に陥りやすいです。

でも、罪を罪として自覚する心や考えも人には必要だから、こういうのは経験として避けられないことでもあり、でもどこかで抜け出さなくてはいけない、責めの罠でもある。

では、誰が抜け出すことを許すかと言ったら…それはその人自身なんですよね。直日(なおひ)たる内なる神、誰でもないパーマネント・パーソナリティが判断すること。

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話戻って、
そのクライアントさんの場合は、過去生の自分の行いに対して、酷い行為をしたと罪悪感を抱いていたわけです。自分は罰を受けないといけない。
かつて自分が他人に与えた苦痛を、自分自身にも与えないといけないと思う気持ちが、自らを死へと向かわせるような行為や、習慣に導いているわけなんですけれども…

同時に自ら成長するために、かつて他者に対して犯した罪が、どれほど非人道なことであったのか…それを知るために「心」を育んで、他者への労りとか優しさとか思いやりとか、早い話が「愛」を学ばないとでもあるので、そういうものが芽生えるまでは…「命」の大切さを身をもって知るまでは…
…なところにいる人でもあったりします。

これって過去を紐解いて解説して、それで得られるものではないのです。

今の段階で伝えても「過去生」のせいにして終わりで、
当人が得るものは情報以外何もない。

あなたには他者への「愛」がないから、他人に親切にしなさいとか…
命の尊さとか重さとかを知りなさいとか、確かにその人が知るべきことではあっても、それを伝えたとして、その人の心にはまだ響かない。それで他人を愛せるようになるわけじゃない。他人に言われて変われるレベルなら、逆にこんな人生を自らに課していない。それもまた現実。

罪悪感からの自らへの罰、戒めとしての拷問的な自傷的行為であったとしても、この場合、容認とは違う意味で見守るしかないこともある。

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「心」は経験しないことには育たない。

愛を知るためには愛のない環境で、それに飢えていることを自覚するまで、
飢餓の中に放り込まれるしかないこともある。

知識や技術は教えることは出来ても、
「心」だけは、いかようにも教えることは出来ない。

自らが揺さぶられて刺激されて、喜怒哀楽を知りながら、
感情という畑を耕して獲得する以外には…

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それから…正当?な罪悪感からというわけではなくて、低い自己評価や刷り込みから、謝った自己設定をして、自らの人生に制限をかけてしまっている人もわりと多かったりします。

そういえば私も、「源氏物語」の中に出てくる夕顔の君の…

「神様が下さった分だけ幸せですわ」

って、セリフが好きだったんですけど、これって謙虚で控えめで、無欲な、
どんなことにも感謝して生きる前向き思考…と取ることも出来るんですが。

ある意味では、ものすごく遠慮しぃの後ろ向き発言、でもあるのですよね。

自分の人生これだけで十分ですって、
制限掛けて決めつけちゃっているとも取れる。

まぁ、何事も当人がどう思うかってのが重要で、一夫多妻が当たり前の時代で貴族社会にあって、愛されて柏木の子供産むものの、正妻からイジワルされて追い出されて、困窮した結果、春をひさぐしかない状況に陥ってしまい、ダンナを探す過程において、あげく源氏と付き合ったばっかりに、六条の御息所の生霊に取り殺されちゃったのに…
「神様が下さった分だけ幸せですわ」と、まだ言えるのならば、夕顔の君はきっと幸せだったんでしょう。

子供遺して死んでしまうものの、いい男二人と恋愛できたのだから?
みたいな自己満足があれば…

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話がまたまたそれてしまいましたが。

自己設定で、自分の人生に制限をかけてしまっている人、ホント多いです。
「私の人生はこんなもんで十分」とか「どうせ私なんか」とか…
自己評価の低さがそのまま人生に反映されている。

と言いつつ、私も自分で自分に制限をかけていることに、最近改めて気づいたヤツですっっ汗

こういうのを自分にかけた呪いというのですが、自分で自分に呪いをかけている人多いですよね。それは言葉であり、思考であり、想念なのですが。
自らの言葉で自分の事を卑下して、縛りを与え、呪文を唱えて自分自身に刷り込んでいる。

誰でもない自分自身が、自分にそんなことをしていることに、気付いていないことがまた問題で。

だからこそ、過去ではなく未来のことを語ることって大切。この場合の未来とは自分が成りたい理想のこと。自分が欲しいもの、好きなもの、愛しているもの、楽しいこと、嬉しいこと、欲しいもの…自分がハッピーになれる出来事すべて。

嫌いなものや憂鬱なことや、嫌だったことや苦しかったこと、悲しかったことは、一度吐き出したらもう口にしないってことですね。過去の想いとくに怒りや抑圧された感情は、確かに自覚して発散させることは必要だけど、それをしたらば速やかに未来に目を向ける必要がある。

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自分がどうなりたいか
どんな未来を生きたいのか
どんな人間としてこの人生を生きたいのか

もっともっと、そうしたことに気持ちも思考も向けて、
言葉も選んでいくべきだと思うのです。

何しろ言葉って他人に言うにしても、同時に自分自身に聞かせている呪文ですから。他人に言う言葉はもれなくいった本人に戻ってくる。自分が口にする言葉はすべて、自分への呪いまたは祝福の言葉となるのですから。

それは文字として書く言葉も同じですね。
手文字だけでなく、ネットに書きこむ言葉もそう。

ちなみに私はYoutubeなどでコメントを残すときは…

動画投稿(情報)への感謝とか誉め言葉とか、うぷ主さんにファンとしての反応での書き込みで、そういうのしか書き込まないようにしています。それ以外だと質問とかかなあ。善い言葉や褒めるところが出てこないのなら、書かないのがいいのかなってハイ。そんな感じ。

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