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1850文字の私の話。

今日のnoteは、長いです。

言葉にして記録したいことであり、心に留めておくには膨らみ過ぎてしまった、いつも膨らみ続ける、そんなものです。
誰かに伝えたいのだけれど、誰宛てに飛ばせば良いか分からずにいる感情です。
こうして書き込むことで誰かに話しかけているような、自分と対話しているような、満足感を得ています。

人生。
このたった二文字の複雑さと短さと、残酷さと素晴らしさが心を蝕んでいる日々です。
人生、というと壮大な話に聞こえますが、これほどに身近なものはないでしょう。
やりたいと思うことが沢山ありますが、やらなければいけないことは時間の経過とともに次々と現れます。
時間は平等に残酷に過ぎていくので、私が余裕を失っても、または持て余しても、1分は60秒で、1時間は60分で、1日は24時間で、1年は365日です。
同じ時間を過ごしているのに、常に思考して行動を起こしている人もいれば、何もせずにただ時間の経過にも気づかない人もいます。

今の自分が何を考えているのかと、考えてみると「分からない」という答えに辿り着きます。
何を考えているのか分からないのではなく、どうすれば良いのか分からないのです。
人生に正解を求めるのは不毛だと、言われます。
勿論私も分かってはいるのです。
絶対的な正解があるのなら、人生なんて言葉は必要なくて。

一時停止したいと考えます。
今の生活、今の自分に必要なのは時間、それも、開放的な時間であると、脳で、心で、体で感じています。
しかし、時間は平等に過ぎていく。
円滑な生活をしていて、そのまま真っ直ぐに進んでいく人々を見て、どうして自分は真っ直ぐに進めないのかと考えます。
私の心が弱いのか、甘えているのか、怠惰なのか。
それとも本当に望んでいるもので、理性的に考えて出た最良の方法なのか。
自分では後者だと思っています。
勿論、自分なので。
本当か?そう問いかける自分がいます。
何かを考えていると、必ず出てくる本当か?の正体は自分への信頼の無さであります。
劣等感や自己否定の気持ちが、そんなわけないだろう、と言うわけです。
無視することもできるでしょう。
がむしゃらに進むことも、パワフルで素敵だと思います。

ここで出てくるのが、「大人」という言葉。
いつも感じます。まるで思春期の女の子じゃないかと。
しかしこの大人というのは何とも都合の良い言葉であり、都合の悪い言葉ですね。
大人になりなさい、の一言で子供の夢を諦めさせることもできるし、大人として言うけど、と言えば説得力のような圧を生み出します。
私はこう生きたいんだ、こんなことをしたいんだ!
そう瞳を輝かせながら夢を語るのも良いでしょう。
しかし今の私にはそれが現実逃避に見えてしまうのです。
夢や理想を語る自分に、不安定さを感じます。
それは行動が伴っていないからであるともわかっています。
夢や理想が膨らむばかりで、他人の地図ばかり読んで歩き方が分からないのです。

人間の難しいところで。
地球上には75億の人がいるというのに、同じ人は一人もいないのですから。
だからこそ正解は無いのだけれど、確実な不正解もないものだから、迷子になるのです。
きっと何歳になっても私は迷い続けるし、常に灰色の何かが頭の中を渦巻いているのだと思う。
子供のころはこれが消えるとき、自分は大人になるのだと思っていました。
今は、こうして頭を悩ませて思考し続けることが私の人生なのではないかと思っています。
大人になりきれない自分がどうしたら大人になるのかは、分かりません。
20歳を迎えた夜、大人になることが更に分からなくなりました。
しかしただ、年齢の十の位が2になったというだけで、自分の中でこんなに人生に対する責任感や社会的な自分の在り方や時間に対する焦りが大きくなるとは思っていなかったので、初めはただ不安で絶望もしました。
だんだんと楽しみを感じるようになってきました。
人生って良いなあ、って、思います。
誰かの理想になるような優れた人間でもないし、なにか特別な功績を残したわけでもないですが、良い人生だと思えるし、1秒先も1年先も良い人生になると思うのです。
だから私は生きたいと思うし、人生を全うしたいと思うのです。

ところで。

部屋が荒れている。
片付けなければいけないと思ってどれだけの時間が流れていったかはもう分かりません。
だんだんとこのカオスに居心地の良さを感じるようになってきたのですが、ふと思ったのです。
もし明日何か事故にでも遭って私が死んだら、この部屋を見た母は泣くだろうと。
部屋、片付けよ。

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