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I am...

多くの人が子供の頃から「周りに優しくしなさい」や、「他の人のことをまず考えなさい」という教育を受けてきたのではないでしょうか。自分以外の人を大切にするのは素敵なことです。では、自分は?…そう聞かれて答えに詰まる人が多いのも、また事実。
今回は「私」の優先順位と幸せについて、私なりの見解を書いてみました。


幸せの基準や前提は自分で決める

賢い人や語彙力豊かな人は素敵な表現ができるのでしょうが、残念ながら私は難しい言葉で説明するのは苦手です。賢い言い回しはできません。だからはっきりと言います。

幸せの基準は外にはない。幸せは「私」の中にあって、幸不幸を決めるのも「私」。つまり、「幸せ=私」である。

こう思っています。
幸せっていろんなジャンルがあると思うんです。お金があって幸せ、素敵なパートナーがいて幸せ、素敵な理想の家に住んでるから幸せ、仕事で評価されているから幸せとか。

じゃあ、その「幸せ要素」がなくなったら、幸せではなくなるんでしょうか?
確かに、そこに価値を置いていたら、それがなくなった時には「幸せ」の拠り所がなくなって不幸に感じますよね。

つまりそれって、「側」に幸せの所有権を譲渡して、自分はおまけになってるって考えられないでしょうか。幸せを感じて豊かになる主人公は「私」なのに、完全に主人公の座を「側」であるお金や家、パートナー、仕事という存在に委ねている。もっと言えば、幸せの所有権を放棄してる。

本来、幸せって「側」に委ねるものではなくて、「あんたはどうなの?」って自分に問いかけるものだと思うんです。

別に清貧の精神でいようとかじゃない、パートナーとラブラブでいたって意味ないとか、仕事ばっかじゃダメとかじゃないです。むしろどれもOK。十分なお金も素敵なお家も、ラブラブなパートナーも、やりがいのある仕事も全て幸せの要素。でも、問題は「私」であるということ。

それを行う中心人物の「私」が幸せじゃなかったら、いつも不足している気持ちでいたら、価値を置いていた「側」を失った時に、そこには喪失感しか残らない。

でも、もし「私自身」が幸せでいたら?もし「側」を失っても、持ち直し方を見出せるはず。だって、幸せの根っこをちゃんと自分の中に張っているから。

迷ったとき、悩んだときには「I am」

幸せの判断基準に悩むこともあると思います。
例えば、私で言うならば子供達との時間か仕事(正確にはお金)か、です。

私は今、一般企業でライターとして働きながら、自営準備とコンテンツ事業を行なっています。

週5で働き、下の子供に関しては朝から最後の一人になるまで保育園で過ごします。約10時間ほどを保育園で過ごすのは、小さな子供にとってはストレスにもなるようで、一時期、保育園に行くのを嫌がり、お腹を壊すことも多くありました。

上の子に関しても、あれこれ敏感で、いわゆるマイノリティなので遅くまで学童保育で過ごすことをいつも嫌がっています。

でも、シングルマザーの私にとって収入を得ることは重要事項です。子供に不自由させたくない、他の子と比べた時に「自分は足りない」と思わせたくない。不足感を感じさせてはいけない。そう思っていました。

でも、ある日、子供と過ごす中でこう思いました。

「不足」と感じていると思っているのは私なんじゃないか?お金は大切だけれど、子供の心のバランスを崩して、我慢をさせて、縛り付けるだけの価値がそこにはあるのか?

ここでポイントは「私」がそう思ったことにあります。「私」はお金を稼ぐことは大切と思いつつ、子供達との時間や子供の心身の健康を「私」が優先させたいと思った、ということなんです。

迷った時はなんかに判断の基準を置かない、任せない。
何かに迷ったり悩んだりしたら、答えを出す時の合言葉は「I am」です。

私は自分で導き出した「幸せ」に従って、仕事の仕方を変えることを決めました。もっと私自身が幸せで豊かに日々を過ごせるよう、働き方改革を推進しています。

大丈夫、全部正解、最善だよ

自分が出した答えが正解か不正解か、そこで不安になって幸せ判断ができないと言う人も少なからずいるのではないでしょうか。
だって、幸せになると思ったのに、それが外れくじだったらがっかりするし、やっぱり私が決めたからって自分を責めちゃうでしょ?

でも、安心して大丈夫。だって、それは全部正解だから。
それで何かを失っても、失敗しても、傷ついても、結局それって最善最良に向かうための「過程」にすぎないから。

人というのは、何かアクションを起こす際は、自分が幸せになるためなのだと聞いたことがあります。

悪口を言う人、妬む人、比較する人、誰かを褒める人、周囲に優しくする人、世話焼きな人、どの人も全て自分が「快」な状態になりたいからする行動だと言えます。

屁理屈のようにも取られるかも知れませんが、これを踏まえて考えたら、どんな失敗も喪失も、不安も何もかもが自分にとっての幸福の「伏線」にしかならない。

だから安心して、自信を持って自分で自分の幸せを決めていい。不安定な「側」になんて任せないで、絶対にそこに居続ける「私」の中で幸せを判断していい。


しくじった!と思ったら、まずはこれでOKとしよう。そして、再度「I am」で答えを導き出して、次の一歩を踏み出す。これを続ければ、あの時の「しくじった!」が「よっしゃ、間違えた!」に塗り替えられるはず。






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