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福田恆存を勝手に体系化する。10   集団的自我の歴史性 


 私は、私にあたえられた世界の中心にいる。むろん、あなたもあなたにあたえられた世界の中心にいる。そしてそれらはそれぞれ、独自のパースペクティヴをなして、たがいを包みこんでいる。
 パースペクテイヴには、個人の次元と共生の次元が開けている。福田恆存の用語でいうと、「個人的自我」と「集団的自我」である。しかし両者を分離してとりだすことはできない。このことは、いくら強調してもしたりないくらいの重要性をおびている。この点について、福田恆存は小林秀雄論のなかで、秀逸なレトリックをもちいて説明している。
 いわく、それは赤と白が綯交ぜになった糸のようなものであり、赤と白の二本の糸にほぐして分けてしまったら、当初存在していた一本の赤白の糸は消え去ってしまう、と。

 つまり、この世には純粋な個人なるものは存在しないということである。われわれは一人でいるときですら、たいていは集団的、対他的に過ごしている。

存在の昼

 白昼、われわれは社会のなかで生きている。私のパースペクティヴには共生の次元が開かれている。この世界を生き抜くためである。

 自己は無限定である。あらかじめあたえられた場所や役割りなどない。王侯貴族の家に生まれようと、いやそれならなおさらのこと、自己の居場所と安全をみずからの力で確保しなければならない。他者から贈られたものは、所詮、借り物にすぎぬ。それをそのまま使用するか、独自に手直しするか、それとも取り換えるか、すべては私自身の判断と行動にかかっている。

 本質的にいえば、所与の自己などはなく、自己は自分でつくってゆかねばならぬものだ。あるいは、そのとき、そこで出来上がった関係性のうちに自己のありようを位置づける。
 しかしそのつくられた自己というものも、けっして固定したものではなく、流動的・可変的なものである。というのも、状況の変化に適応できなければ、生命の危機を招くからである。したがって自己は、その状況の関係性の変化に応じて変容する。生命そのものが変化し流動するものなのだ。

 私は、ごく狭い「現在」という時空の場に生きている。「現在」にあるということは、「未来」に直面しているということでもある。不確定の未来は、私のパースペクティヴにおいて、もっとも問題的な要素である。出来事はつねに未来からもたらされる。それはどんな場合も一定のものではなく、多様で複雑で流動的な性質をおびた現実である。それに適応するために、私が拠りどころとするのは過去である。それが現在を構成する要素であるからだ。
 過去は確定的で不動の実在である。われわれはそこを足場とする以外になすすべはないのだ。未来をつくるための道具は過去の倉庫からさがされねばならない。人は未来に生きるために過去に遡る。それが人間の逆説的運命である。ここに歴史の存在論的起源がある。
 不確定の未来に対応するために、人はこれから起こりうる事態を予測しようとはかるのだが、そのために記憶というものがある。記憶は過去との結び目である。過去は、すこしも過ぎ去ってはいない。
 卵を落としたら割れるというような卑近なものから、地球の気象予測、膨張する宇宙の遠い将来まで、人間は過去のデータから適切なものを選別し、そこに因果関係を仮説することによって未来に起こりうる事態を推理しようとする。そののち、数種類のプランをたて、検討し、取捨選択する。
 個人の過去は記憶であり、歴史は集団の記憶である。私の視点から、時空間において、遠く離れれば離れるほど、歴史が参照される。幾何学や物理学だって、「歴史」なのである。より正確にいえば、「歴史的理性」だ。

 私という人間は過去のさまざまな屈折点の経験をへて、その情報を保ちつつ、そこに上書きすることで、現在の私ができあがっている。だから、過去の任意の一時期をとりだしたところで、現在の私を説明することはできない。
 同様に、歴史は、マトリョーシカのように、つねに前時代を包みこみながら次々と発展してきている。そのようにして現代の歴史の地平線は出来上がっているのである。古代都市の遺跡のように、深く掘れば掘るほど、より深い地層から、古い時代の遺構が順次みいだせる。「現在」は数々の重なった過去の遺構の上に構築されている。いいかえれば、現在のうちには過去のすべてが生きているのだ。われわれがどれだけそのことに気づいているか、それはまた別問題である。

 人間は自分の周囲にひろがる世界のなかで孤軍奮闘することを義務付けられている。人生は骨の折れる孤独な労働なのだ。次々にあらわれるあらたな事態に直面し、私は生きてゆくためにそれらに対処しなければならない。その手がかりを得るために、共生の次元は開かれている。幸運なことに、自分だけでは手に負えない問題についても、社会はその時代特有の多様なメニューを用意してくれている。私は他者との共生を通じてそれらを閲覧し、そこから選択し、取得する。もちろんそれもあくまで借り物であるから、みずからカスタマイズしなければならない。

 社会があたえてくれるさまざまなもの、つまり文化は、先人たちが過去に未知の事物と格闘して得た成果を集積し、仕分けし、綜合してつくりあげられた貴重な財産である。それはその時代の地平線に応じて特有の様式を保持している。その多様で貴重なプログラムがわれわれを育て、われわれを守り、われわれに規則を押しつけ、われわれの依拠する大地をかたちづくっている。われわれが人間たりえ、現代人たりえているのは、ひとえに歴史のおかげなのだ。人は歴史によって生みだされ、そしてまた、歴史の担い手でもある。過去は消え去ることなく私のなかに蓄積されている。これもまた、逆説的な人間存在の秘密である。

 福田恆存が「集団的自我」は歴史を背景にしているというのは、そういう意味においてである。われわれは、「巨人の肩にのっている」のだ。

 歴史を見る場合、それを外部からながめるのではなく、過去の人びとのパースペクティヴの内部から起こったこととしてとらえなければならない。歴史上の人物たちは同時代人とは本質的に異なる。ともすればわれわれは、現在の「高み」から過去を見下してしまう。それはチェーホフのいう、「卑劣の高み」にほかならない。

 だがわれわれは、ふだん、こうした人間の根本的事実を意識してはいない。

 それどころか、白昼の世界では、人はもっと表層に生きている。何気ない日常の理解や判断においては、それらはほとんど自動的になされる。そうでないと、抜き差しならない問題に直面したときの、思考の余白が確保できない。人は四六時中、緊張していられるわけのものではないのだ。
 しかしその副作用として、ときとして人は、つまらない意見に流されることがある。その基礎となっているのは、「誰かがそういっているのを聴いた」「一般にそういわれているから」という、はなはだ曖昧な資料である。「世語」とか「輿論」といわれるものだ。その社会のうちに非公式に合意されているとみなされる概念である。とはいっても、それはどこにも根をもたない浮遊した観念である。いかなる責任の所在の見いだせない意見といえる。(注)
 それにもかかわらず、この顔のない意見は、社会の消極的な合意を形成し、思考の前提となり、さらなる行為の自動化をうながす。そして無反省に物事を評価し、眼も鼻も耳もない群衆への付和雷同を強いる「空気」を醸成するのだ。われわれがその意見の真偽や根拠を確かめることなく、何の気なしに受けいれてしまえば、この偽造された常識をみずからの所信としてしまうことになる。

 福田恆存のポレミックは、いつもそういう浅薄な信念、顔をもたぬ意見にむけられている。だから、かれはいう。

――常識を疑え

付記 福田恆存の時間論の詳細については、またべつの章をもうけるつもりである。

注〉こうした言説の現代のオーソリティは、「コメンテーター」という肩書をもつ人びとである。むかしは「文化人」とよばれていたようだが、とにかく、もっぱら時代精神の表層をただよう疑似常識を語る。そのことによってますます、俗説は広がり、力をもつ。かれらにしてみれば、無理もないのだ。疑似常識を疑い、俗説をくつがえすような発言をすれば、反感を買い、「炎上」する。へたをすると「コンプライアンス違反」に問われかねない。それではメシのタネを失うことになる。
 とはいうものの、かれらは商売として割り切ってやっているのか、それとも素朴に所信をのべているつもりなのか――おそらく、両方であろう。


福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。