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介護ってなんなんだろう(終)

これまで母の認知症の症状が顕著になってきたときから亡くなるまでの一年ちょっとをこのnoteにまとまりのない文章で綴ってきた。
タイトルに介護という言葉があるが実際に私自身が直接母の介護をしていたわけではないので実際に携わっている方にとって何も参考にならないどころか「それで介護と言えるのか」とお叱りがきそうだ。
自身の母親の問題なのにどこか俯瞰で眺め、時折弟の行動に苛立ちながら母と弟の様子やその周りの状況を書いてきた。

母が亡くなってからではもう遅いが
”母が認知症かも?”と思った際”私自身何をすべきであったか”を考えてみた。


・日頃どんな暮らしをしているのかもっと頻繁に実家に行って様子をみるべきだった。
(約3年前の父の葬儀の際、足が悪いにも関わらず車椅子用トイレではなく和式トイレに入った時から既に認知症の疑いがあった)

・ケアマネージャーに母の様子等連絡を密に取り合うべきだった。
(旧ケアマネージャーは娘である私は同居していないからなのか一切連絡なし。本人が退職し次のケアマネに交代をする際に初めて対面。母や弟に対してかなり威圧的な口調の人物であったのでそれだけでも早く認識すべきだった。退職理由は濁されたが利用者から苦情はあったのかも)


・月に一回の内科と整形外科の通院に付き添えばよかった。
(弟に連れられて通院していたが認知症の症状があること、高血圧等の薬を飲むのを拒否してほとんど飲んでいないことを医師は全く知らされていなかった)


・入院し、在宅介護ができなくなった後も新ケアマネージャーに担当範囲以外だからと遠慮せず施設がなかなか決まらない等こちらから相談すべきだった。
(以前から新ケアマネは病院では薬の濫用の弊害や日常生活動作の低下が問題のためなるべくデイサービスとヘルパーを活用する等を提案していたのだが、、)


・気分転換に母を散歩に連れ出したり楽しい話をして会話を増やすべきだった。
(結局これがなかった。弟に対して注意をするだけで自分は実行しなかった)


亡くなってからいろいろなことが悔やまれる。自分自身の母に対する態度を振り返らずに同居していた弟を責めてばかりいた。
そして父がまだ生きていた頃から世話になっていたという訪問薬剤師の存在。私以外にほぼ毎日ケアマネージャーにも施設や病院の指定や薬の必要性などしつこい程電話してきたという。
“おかしいな”と思うことは、母が拒否して飲まなくなった高血圧等の薬を管理?し、通院が決まってからは弟に処方箋をわざわざ病院内のコンビニのファクシミリで薬局まで送らせて薬を家まで持参しに訪問していた。
院内薬局があるのでそこで処方箋を出して薬を直にもらえばそんな手間はいらない。なぜその時気づかなかったのか私もどうかしていたが。疑えばきりがない。弟いわくすごくきれいでかわいらしい人、らしい。


弟は「自分が病気だから何もできない」というがただ幼少期から何でも先回りして面倒をみてしまう母がいわゆるヘリコプターペアレントだったのは間違いない。
当時でいう登校拒否児童だった弟。中学の卒業式に皆で出席するのが難しいだろうと先生が別の日に設けてくれた卒業式の日、本人が行くのを渋り母が卒業証書をもらってきてしまった。もしかしたら弟以外にもそんな生徒がいたのかもしれない。その日も本人が行くのを嫌がり欠席した生徒もいたかもしれない。もうひとつの卒業式の日、母親が来たのはどうやらうちだけだったらしく担任の先生から「できれば◯◯君に来てほしかったです」と言われた、と聞いた。
他にもえっ、と思う過保護エピソードは書ききれない程たくさんあるが、こんなに息子のことに時間と手間を割いてきた母の死を弟はそれほど悲しんでいない様子なのが私は悔しいんだ、と知ったのだ。デイサービスとのコミュニケーションが上手くいかない上に家では弟と同居しているにも関わらず会話もほとんどせずテレビを見続けるだけの日々。意思の疎通も難しく母は”カサンドラ症候群”のような状態だったのだろう。夜、弟はコンサートや友人の家に出掛けひとりぼっちで不安だったろう。ひとりぼっちになる夜は私かヘルパーが家にいられるようこれからサポートしていこうとした矢先、認知症を診ていた精神科に入院、長引かせてしまった。


8050問題と聞きすぐにどんな問題か答えられる人は少ないと思う。老老介護とは意味が違う。
社会的つながりが困難な人が社会的つながりがどうしても必要になった時、第三者である他人はどこまで関わるべきであろうか。
私は少しでも弟が自立出来るようある程度の範囲まで助言だけはしていこうと思っている。すべての責任は負わない。
何もかもこちらで解決して弟が「誰かがやってくれるだろう」と思わないために。




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