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相貌失認なわたし

わたしには軽い相貌失認がある。

相貌失認とは人の顔の見分けがつかない障害である。
ひどいと自分の親兄弟の顔も見分けられないという、割と深刻な欠陥だ。

わたしは「軽い」と書いたが、本当のところは診断を受けたわけではないので、断言できない。
ただ、とりあえず、日々の生活には支障がないので、軽いのだろうと思っているにすぎない。

実はまさに支障がなかったから(あるいはそう思い込んでいたから)、自分でも結構な大人になるまでこの障害に気がつかなかった。

多分はっきり自覚したのは40もだいぶ過ぎてからだ。

もちろんそれまでにも、例えば中学生の時、国語の教師が突然おばさんパーマをかけてきて、教室中が爆笑している中、わたし一人が一体この人は誰なのだろうと、当惑していたとか、いろいろなエピソードはある。

けれどそれも、先生が教壇に立てば、ああなんだ〇〇先生じゃないか、ずいぶんと印象が変わるもんだ、くらいの話で、特に自分がおかしいとは思わなかったし、実際困ることはなかったのである。

しかし、いま冷静に分析すると、確かにわたしは「人を相貌で見分ける」という能力が、一般よりずいぶん劣っているのは間違いない事実だ。

ではなぜ顔が見分けられなくても、困らずにいられたのだろうか?

それは相貌以外、声とか体型とか、仕草とか、あるいは学校だったら、同じクラスだとか、部活で一緒の子なのだとか、そういう顔以外の情報で「見分け」ていたのである。

これは普通に顔の見分けができる人には、なかなかわかってもらえないのだが、猫の見分け方だと思ってもらえばいい。

人は普通、猫を見分けるのに、毛の模様と色、大きさ、そしてどこにどのタイミングで現れるか、で見分けている。
しかしそこに白猫が10匹現れたらどうだろうか?
それが同じような大きさで猫種も一緒だったら、はたして簡単に区別できるだろうか?
これはなかなか難儀なミッションであるはずだ。

相貌失認というのは、よく漫画や小説で描かれるような、相手の顔がみな能面のように同じに見える、などということではない。
それは、猿山の猿を一匹ずつ見分けるのが困難で、みんな等しく「猿」に見えるというのに近い感覚だ。

もちろん猿や猫もその顔をよく見れば、決して同じではないので、親しく何度も見ていればやがて見分けもつくし、間違えることもない。
わたしにとって人間の顔も、同じ範疇なのである。
時間をかければ、認識できるようになるのだが、それでは世の中に追いつかないので、周辺情報を加味する。

そして、たとえ親しい人でも、普段、顔以外の情報に依存しているぶん、久々に会って雰囲気や体型が変わっていたりすると、またわからなくなってしまう、ということなのだ。

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