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努力と才能

努力と才能について時々考える。
自分が長く教員であったことが理由だと思う。
このテーマは散々論じられてきたことだと思うけれども、あまりしっくりくる論考を見たことがない。
結局両方大事なんだよというのが、当たり前の結論なんだが、例えば努力する才能だとか、続ける才能、みたいなことまで考えはじめると、何が何だかわからなくなる。

ところで世間一般には、芸術系は才能、学力系は努力のように語られることが多いように思う。
これは明確に間違いで、学力がストレートに人生の成功みたいなところに結びつく社会にあっては、その伸ばし方が、高度にマニュアル化されているので、誰でもそれをなぞりさえすれば、ある程度の結果が出るのである。

つまり学力においては、より無駄のない努力の方法が研究し尽くされていてる。ということだ。

例えば日本国民は、8割以上が九九や四則計算くらいは何とかものにしていてるので、結果6、7割の人間はお釣りの計算に苦労しない。
これは日本の算数の教育が優れているのであって、日本人が他民族より数学の才能に溢れているわけではない。(二桁の掛け算まで暗記させているインドの方が理系分野の人材を多く輩出していることを見ればわかる)
適切な教授法が研究されれば、人は才能に頼らなくてもある程度の結果を出すことができるのである。

そこで、生涯収入がデッサン力で決まる社会があると想定したらどうだろうか。
そこでは、延々とフリーハンドで正円を描き続ける訓練とか、まぁそんなものが導入され、かつ多くの子供たちがそれに従うというような世界が構築されるに違いない。
その結果、誰でも幾何形体くらいは正しく形がとれるようになり、全体の画力が押し上げられる。

しかし、何のモチベーションもないところで、またはある種の強制力のないところで、面白くも何ともないことを、何ヶ月も続けるようなことを、人は絶対しない。
だから特に必要とされない分野においては、わざわざ、面倒な訓練の最適化、マニュアル化がなされず、そういう訓練なしに、最初からある程度の能力を獲得できる人間=才能のある人間の独壇場になるのである。

現状我々の生きる世界では、芸術系や体育系は学力系より必要度が低いと考えられている。
なので前二者は後者より才能がものをいうと考えられがちなのだと思う。

今日の結論。
人は、才能と努力の相互作用で能力を身につける。分野によって、才能だけ、努力だけに偏ることはない。

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