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短編小説「思い出を盗んで」その6 蝉時雨


その6 蝉時雨せみしぐれ


    夏の昼下がり。

 青い空に入道雲が湧き上がっていた。中庭の木々からは蝉たちの声が賑やかに響いている。

 彼は二階の私の部屋の窓枠に腰を掛け手摺に体を預けて外の風景を眺めていた。

 私はベッドに座って彼を見ていた。

 「何をそんなに熱心に見てるの?」

 彼は外を見ながら応えた。

 「不思議だなって」

 「何が不思議なの?」

 「夏は暑いし蝉たちは一生懸命鳴いている」

 私は彼の言葉に思わず笑ってしまった。

 「それって当たり前じゃない」

 彼は私を振り返った。

 「エントロピー増大の法則って知ってる?」

 「えんとろぴー?」

 「うん、随分前に物理学専攻の友だちから聞いたことがあってね。僕も難しい計算式とかは分からないけど、この世界は秩序から無秩序に向かってるらしいんだ。統計力学という分野では乱雑さとか無秩序の度合いをエントロピーって言うそうなんだ」

 「乱雑さとか無秩序…うーんと、私の机の上みたいなものかしら?」

 彼は私の机の上を見て笑った。

 「確かに君の机の上はエントロピーが増大しているね」

 「私の机の上を表現する法則があるなんて思いもしなかったわ」

 「君は時折天才的な事を言うよね」

 彼は表情を改めて言葉を続けた。

 「元々は熱力学の用語らしいんだけどね。例えば、さっき飲んだ珈琲は淹れたては熱いけど、そのうち段々冷めていくだろう。それもエントロピーが増大したというわけなんだそうだ」

 「確かに熱を加えて温め直さないと冷めていくわよね。美味しくなくなるし」

 彼は再び笑った。

 「味はとりあえず置いといて…とにかく放ったらかしにしたままだと物事は乱雑になっていくし無秩序な方向に向かっていって決して自発的に元に戻ることはないということなんだ」

 「自分で片付けしないと片付かないっていう法則っていうこと?なんて嫌らしい法則なのよ。頭が痛くなってくるわ」

 彼は笑いながら言葉を続けた。

 「物事は無秩序になっていくし熱のあるものは冷たくなっていく。それで文系だけど極めて優秀な頭脳の持ち主である僕が思うに、エントロピー増大の法則に反しているものがある」

 「何かしら?文系の平凡な頭脳の私には分からないわ」

 「生命いのちだよ。生命せいめい活動さ。生命活動はエントロピーの増大に抵抗をしている状態だと思えるんだ。正しい解釈かどうかは分からないけどね。生命いのちって、ある意味、秩序のあるシステムだよね。それを維持しようとする生命活動は生命いのちのエントロピーが増大するのを必死に防ごうとする活動なのかもしれない。そういう事をさっき外を見ながら思ってた」

 「そうだったの」

 「うん、一生懸命鳴いてる蝉もこの暑さをもたらしてるお日様も生きてるんだなって。蝉時雨せみしぐれを聴いていると蝉たちが必死にこの法則に抵抗してるんだなって思えてね。でも、やがていつかは冷たくなるし崩壊していく。文字通り『必死』なんだよ。諸行無常だよね」

 「『すべて生命いのちあるもののように…流れるままに身をまかせれば…』ってことなのね」

 いつか見た彼の詩が自然に私の口からこぼれた。

 「結局はそういう事になるのかな」

 彼は少し淋しげに笑った。私はそんな彼の淋しげな表情を打ち破るように言葉を足した。

 「もう一つ、この法則に反しているものがあるわよ」

 「何だろう?」

 「これだけは私も自信を持って言えるわ」

 「うーん…ちょっと思いつかないな」

 彼は降参したという感じで両手を軽くあげた。私は少し誇らしげな顔をして言った。

 「私のあなたへの思いよ。それは何時いつまでも冷めないから」

 彼の顔に晴れやかな笑顔が広がった。私の好きな彼の表情。その表情を見ると私も嬉しくなる。

 「君はいつも僕に元気を与えてくれる」

 「あなたもよ」

 彼は立ち上がり私の手をとって言った。

 「二人で出来るだけこの法則に抵抗していこう」

 私は頷いて立ち上がり彼を抱きしめた。彼は優しく私を抱き返してくれた。そして、私に口づけをした。

 蝉時雨せみしぐれの音が二人を包む。

 その音は不愉快なものではなかった。むしろ私たちを音のベールで包みこんでいるかのようだった。その音に他の音が消されているせいか私は不思議と静寂さを感じていた。この世界に存在しているのは彼と私の二人だけ、そんな感じだった。

 (私たちもいつかはこの法則の通りになってしまうのだろうか…)

 そんな思いが不意に私の頭の中をよぎった。私はその不安から逃れるように彼を抱く手に力を込めた。


オフコース「思い出を盗んで」より

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