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沖縄を歩く (3)

 那覇を離れ嘉手納町を訪れました 
今回はさつまいもと、それに関わった人物についてのブログです

・嘉手納町にて

 嘉手納町を訪れた日は雨が降っていた
 雨の中でも久しぶりに沖縄をドライブできて嬉しかった
 嘉手納と言えば米軍基地を連想するが、
今回は嘉手納町出身の人物と「さつまいも」について、あと関連する話しをしていきたい
 
 さつまいも(以後芋と記する)は栄養分が豊富で主食にもなりうる健康食である 痩せ地でもよく育ち、地下で育つため天候の影響を受けにくい 今でこそ嗜好品であるが、中世では凶作の時でも収穫が見込める、いわば救荒作物として重宝された
 原産は中南米でヨーロッパ 中国から 琉球そして薩摩や長崎を通り全国に広まった 薩摩は通過点に過ぎない
 ちなみに鹿児島では県を代表する農作物であり、離島を除いて大抵、唐芋(からいも)とよんでいる
 

 以前この場所を訪れた時 偶然銅像を見つけた 前回その人物を知り、今回また訪れようと思ったのである
 名前は野國總管(のぐにそうかん) 芋を明から持ち返り琉球で普及させるきっかけを作った人物である 
 実名は不明であるようだ 野國は嘉手納にある地名で、總管は進貢船での係員をした時の役職名であるらしい

道の駅嘉手納にある 野國總管像

 記録としては芋を琉球へもたらした事以外に見つけられなかった
 この時代 庶民の食生活は厳しかった 元より土地が痩せている上、台風や日照りなどの天候不順があれば飢饉もあったらしい
 その状況を目の当たりにしている野國としては雑穀の替わりになる食べ物を中国で見つけようとした事は想像できる
 そして幸運にも、現地の人から教えてもらった芋を、鉢植えにして琉球に持ち帰った 当時明とは朝貢貿易をしていたとはいえ芋はリストに入っていたとは思えず、持ち出すには苦心したと思われる
 地元に帰った野國は栽培を始めたが試行錯誤の連続であっただろう 育つ過程で根付くまで時間がかかったようである だが芋としての価値は高く、嘉手納周辺では農家が栽培していたらしいから恩恵を受けた人々もいたはずである
 ある日、野國の前に儀間真常という人物が現れる 士族であった彼は野國が作っている芋に興味を持っていたようで 儀間は野國に頼み芋の苗を譲り受け、儀間も作付けを始めた
 試行錯誤の末、やがて彼は芋ツルを30cm程に切って地中に差し込む方法を編み出し
 このことで根付きが速くなり収穫までのスピードが速まり結果、芋の収穫量が増えたらしい
 さらに儀間は足しげく農家に出向き芋と栽培方法を伝授し、それが島中に伝わっていった
 芋の普及が嘉手納周辺で止まらなかったのは儀間の功績による
 その後も飢饉が起きたりしたが、芋のおかげで被害はかなり抑えることができた上、時とともに人口も倍増したといわれ、野國と儀間の功績は大きかったと言える

この芋による恩恵は琉球だけには止まらない

 どの産業にも言えることだがその産品が普遍的に広がって行く時 起点となる人物がいるようである
 本土に芋が伝わったのは諸説あるようだが、江戸まで伝わったルートを見ると薩摩の船乗りだった前田利右衛門が起点になった   
 前田が薩摩に持ち帰った芋が瞬く間に普及したところを見ると 芋と同時に作付け方法も学んでいたのではないか 薩摩でも食料事情はよくなく飢饉が重なっていた 芋はその状況を救ったと言える
 その後芋は江戸に伝わり、青木昆陽が芋の作付けをさらに進化させ普及させ、幾度か襲いかかる飢饉をしのいだとされる
 野國が琉球に芋の苗を持ち帰らなかったら、さらに持ち帰ったとしても儀間が島中に普及させていなかったら、薩摩の前田はそのような物があると気付かなかったかもしれず、本土への伝播はさらに遅れていたかもしれない 
 この時代、芋を通じて命を救うためのリレーが行われていたと言っていいのではないか

那覇市奥武山公園内にある世持神社
野國總管 儀間真常 蔡温 沖縄を救い繁栄をもたらした三恩人として祀られている
なお御神体は現在、波之上宮の境内で祀られている


 道の駅の屋上に出てみた、展望台があり基地が一望できる 雨の中静かだった

雨の米軍嘉手納基地 


屋上の展望台にある計測器 騒音問題が深刻なことが伺える


 道の駅では昼食をとるなどして、しばらくとどまっていたが、この時間帯 基地を離発着する軍機は一機も現れなかった 離発着する軍機の迫力を楽しみにしていたので 少し残念な気がしたが、
「静かならそれはそれでいいじゃないか」と自分に言い聞かせこの地を後にした



最後までお読みいただきありがとうございました 次回は読谷編ですが 沖縄慰霊の日に合わせ寄稿したいと思っています その時はまたご覧ください

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