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沖縄を歩く (6)

 二週間ぶりのブログです
今回は指宿市の山川港周辺を散策してみました
 正確にはタイトルは「山川を歩く」になりますが、琉球に関する史跡を辿りましたので、勝手ながらタイトルはそのままにします

⚫山川港周辺にて

 山川は私の住んでいる所から遠く、訪ねたことはそれほど多くなかったように思う
 ただ半島の端っこにある港町であるため、寂寞として見えて、それが魅力的に映る
何となく行ってみたくなる土地ではあった
 
 山川港は鰹(かつお)等、水産物の水揚げが盛んである 昔は薩摩の藩港として政治、経済、軍事において重要な港で 中でも交易が盛んであったことから、多くの人や物資が行き交う活気ある港だった
 

薩摩半島 南東部に位置する 山川港周辺
国土交通省 国土地理院 地図・航空写真
閲覧サービスより引用

 地理的に言えば 薩摩半島の付け根にあり、周辺は湾状になっている 東側にある湾の入口は鹿児島湾に接する事で、外洋からの荒波を防ぐ天然の良港と言われる
 航空写真で見ると湾の右側は砂嘴になっており、その上に街並みが広がっている 港は湾の内側の街並みに沿うように伸びている
 私は町の一角に車を止めて歩きだした

 まず向かったのは薩摩の水夫であった前田利右衛門がさつまいもの種芋を琉球から持ち帰った所である さつまいもは沖縄を歩く(3)でも触れた 彼は芋の栽培を確立し、周りの住民に広めたとされるから、地元の土壌に適した栽培方法を見つけたのだろう さつまいもの伝播に関して諸説ある中 利右衛門のこの説が有力なのも彼の栽培方法が周りから受け入れられやすく 出来が良かったからではないか 
 多くの人々を飢えから救ったとされ 山川の徳光神社では彼自身が祀られている

航空写真では湾内に入り左奥にあたる場所にある
現在は漁船の繋留地のようである

 ちなみに ここはさつまいもの他 キリスト教布教のため訪れたフランシスコ ザビエルの上陸地でもある 昔はこの辺りに外洋船の船着場があったのだろう

 海辺を離れ、しばらく歩くと山手に墓石群が見えてきた その一角に真新しい石塔がある 琉球人鎮魂墓碑である 

琉球人鎮魂墓碑
琉球侵攻から400年の節目2009年に建立される


 山川には貿易商として多くの琉球人が居留していた 因って海で遭難して亡くなったり、客死した琉球人の墓があったが、1880年西南の役戦没者招魂塚を造成するにあたり琉球人の墓は撤去された 年数は経たものの新しくこの墓碑が建てられたのである 
 西南の役のすぐ後であれば混乱していた状況であったことは推測できるが それにしても故人が静かに眠る場所を撤去するとは 他に方法はなかったのであろうか
 実際撤去に反対する人物はいた 山川の貿易商で豪商と言われた河野覚兵衛である 先ほど記した前田利右衛門はこの貿易商の下で働いていたらしい 河野家は代々覚兵衛と名乗る家柄で、琉球人とは貿易を通じて長年にわたり共に仕事をしてきた 当然先祖から続く信頼関係もあったはずで 彼らとの繋がりを大事にしたかったのだろう 覚兵衛の情が伺えるが、抗いむなしく世情は許さなかったようである
 無理が道理を追いやる哀しい時代だったのかもしれない

 墓碑に手を合わせた後 町の中心部へ向かった
 町は直線的な細かい筋が幾筋も伸びている
たまに斜めからの筋が入り 進むにつれ何度か道に迷ったが、通りは整然としていて歩いていて心地良かった
 通りにはT字路もよく見られる そこにはいつ据えられたかわからない石敢當(いしがんとう)がいくつか見られた 
 石敢當はT字路の突き当たりに据えることで、直線的に進む魔物からその先にある家を守る魔除けの石とされる
 元々は中国の宗教的な風習から来ているようだが、沖縄ではシーサーとともによく目にすることができ 沖縄の一風景になっている

かなり古い時代のものと思われる石敢當

 鹿児島でも石敢當の風景はよく目にする 昔からの武家屋敷の通りでも、また造成された住宅街でも目にすることから、地元の風習に溶け込んでいると言えそうである
 ただ、いつどのように伝来したかはよくわからない 周辺には琉球人の他中国人も居留していたので琉球人からだったかもしれないし、もしくは中国から直接伝わったのかもしれない
 いずれにしても東シナ海を囲む地域で同様の文化が色濃く残っている事に違いはないと思える

 このあと、しばらく町中を歩いた 山川石という黄土色をした石壁や昔ながらの住宅を見て癒される感じがした そういえば近くにかつて琉球人や中国人が暮らした場所があるはずである この辺りかと思われる場所はあったが、確信が持てぬまま歩き続けた

山川港近くの街並み

 
 山川に来た琉球人は貿易で居留地に住んでいた人々だけではない 琉球使節団がこの地で一旦降りて江戸や京を目指していたし、士族も公務で薩摩に来ていた

 琉球舞踊の一つ古典舞踊に上り口説(ぬぶぃくどぅち)という演目がある
 琉球の使節が首里から出発して山川港までの旅程を情景豊かに描いているのだが その内容の一部を紹介したい
 歌詞はまず首里観音堂で旅の安全を拝み、別れの酌を交わすで始まり、港までの道のりでは仏閣を巡り、家族・兄弟と涙で袖を濡らすとある
 船に乗り込み南南西からの風をまともに受け出帆し、残波岬や伊平屋など主要な場所を通りすぎ 最後は佐多岬を横目にして開聞岳や桜島が見えてくるという旅の情景を描いている
 旅の行程が順調にいくことを祈願した曲ではあるらしいが 行く手には難所が多く、頑丈に作られた船でも木造船にすぎず、天候によっては遭難した船もあった
 命懸けの航海であったことに違いはない
 歌詞には旅を目前にした使節の悲壮感のようなものが伺えるし 最後に開聞岳など薩摩の名所が数多く出て来ることで、厳しい船旅がまもなく終わるという安堵感が伝わってくる

夕闇せまる開聞岳

 名所の一つ開聞岳について話すと、私は以前離島に住んだことがあり、鹿児島との行来で何度も山川近くを船で通った この辺りで甲板にいた時 目にしたのは山川港の向こうに見える開聞岳であった 本土に向かう途中で時化にあってもこの山がかすかに見えた時 元気を取り戻したような記憶がある
 本土へ赴く琉球人も、おそらく最初に目にするこの山を見て、やがて陸へ上がれる喜びを感じていたかもしれない   

 
 最後に、少し歩き疲れたので車に乗り込み、港沿いを走ったあと 街の東側の海岸に車を停めた
 近くには鰹節製造業の団地がある 建物の外には鰹を燻(いぶ)すためか、たくさんの薪が規則正しく積まれていた
 ここに立っていると鰹を燻す香ばしい匂いが風に乗って運ばれて来る

山川港沖合いの風景 対岸の大隅半島が見える

 私は以前大分の田舎を訪れて、のどかな田園の中で梵鐘からの音を聞いた 梵鐘の音色が霞のように風景を染めているように感じ、音のある風景にわずかに感動したことを思い出したが、感覚繋がりであれば、ここで鰹を燻す匂いを感じながら海を眺めるのも悪くない
 しばらくここにとどまり匂い立つ風景を眺めていた


お読みいただきありがとうございました 
次回はまだ未定ですが近いうちに投稿する
つもりです

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