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沖縄を歩く (1)

 2月に入り沖縄に来ています 約1年ぶりです 今回は首里城 嘉手納 読谷を巡り、その過程を紀行文形式にまとめる予定です
 初回は首里城に向かう前に立ち寄った龍潭(りゅうたん)池です

⚫首里城周辺・龍潭池

 モノレール首里駅で降り 歩いて10分程たっただろうか 首里城近く龍潭池のほとりに着いた ほとりの一部は車の行き交う道路に面して、その反対側は鬱蒼とした木々が水面の上までせりだしている 入りくんだ池の水面で数羽の水鳥が羽を休めていた
 自然にできた池のようにも見えるが人口の池である 琉球王朝の国王・尚巴志が国相(首相にあたる)の懐機に命じて造らせた
 尚巴志は本島南部 佐敷の生まれで風雲児であったらしく後に南山 中山 北山を滅ぼし三山を統一して琉球王国を樹立した 海外との交易を発展させたことからどこか織田信長を連想させるが、家臣からの人望は厚かったらしい 国相に華人の懐機を就けた所をみると進取の精神が旺盛だったことが伺える
 やがて懐機は中国に渡り多くの庭を見て回り作庭技術を学び、帰国後着手した
 土砂を掘りそれを近くに盛って築山を造り草木を植えた 掘った所に水を張り魚を放った 完成後はこの辺りの人々の憩いの場になったらしい 明の冊封使を招いた時は池に龍船を浮かべ歓待した
 船上からの風景はどうだったろう 草花の回りで人々が憩い 池には魚が群れ 水面には首里城の館が映る まるで天上界にいるような心地だったかもしれない

龍潭池から首里城方面の風景 

 風水は気(エネルギー)の流れを制御する事で吉凶禍福を科学する学問・思想とある 龍潭という名称からして風水の思想を取り入れているのかと思ったが、それを示す明確な資料はないようだ
 ただ私には龍潭作庭の設計図に風水の下図が透けて見える感じがする
 
 中国・北京の紫禁城は明の時代に建てられた王宮である 様々な資料に目を通すと建設時、風水の思想がベースになっていた事がわかる であればその思想が国内に既に浸透していたはずで、明に渡った懐機は作庭技術とその根底にある風水の思想を併せて学んでいたとしても不思議ではない しかも懐機はその紫禁城を実際見ている
 場所を龍潭に戻す ある風水の一説では各方面からの気が龍潭付近に集まるのが良いとされている 首里城から湧きだした水が流れ     風を生み池を造ることで生気が集まる 水は活気・財運にたとえられるから、ここで水(財運)を留めて生気が流れていかないようにとの意味があるらしい
 琉球は王朝時代に様々な国と交易を行い発展させた 薩摩侵攻まではその過程で多大な利益を積み上げていく がその多大な利益は首里の丘で留め置かれ、その下流や麓に住む一般の民衆には及ばなかったようである  
 (王朝時代の格差の記録があるから間違いないようだ) ただそれが風水の効力によるものかはわからない
 この時代、人々は多様な国との交易を通して多種の物産と文化に触れることになる 分野によっては地元の風土にあわせ改良し普及させたり、高い次元の芸術性のあるものにまで発展させたりしてきた その事で後に多くの人々が恩恵に浴することができたのである
 風水もその一種である 風土にあわせ独自に進化した過程がある 龍潭が(初期にせよ)風水を底流にして造られ重厚な文化財に仕上がったことに違いがないように思えるのだが..

首里城から湧いた水が右上奥の円鑑池(えんかんち)を通り龍潭に注いでいた

 池のほとりを歩いてみた 途中築山があり若干の高低さがあった 入りくんだ水辺を見ると作庭で造られた池であることがわかる 来た道を戻り、道路側へ出ると池の向こうに大きな白い建屋が見えた あの中で首里城の正殿等が再建中なのだが いつかベールのような建屋が取れて復元された首里城をまたここから見てみたいと思った

 

 お読みいただき ありがとうございました
次回は首里城内に入り 感じたことを綴っていきます


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