他人に対して「無知の知」

・こんにちはスカラベです。

・私が使っている自転車はちょっとした段差に乗るなどして少し揺れただけでベルが鳴ってしまう。自分で鳴らした時ほどではないが、そこそこ大きな音が出てしまう。

・たまに前に歩く通行人が、私の自転車が段差に揺れて鳴った音に反応して振り返る。「勝手になっちゃうだけで、貴方が邪魔で鳴らしたわけじゃないですよー!」ってことを知らせたくて、できるだけ早く近くにある段差にわざと乗り上げてベルが鳴ってしまう様を見せているが、あれで相手の人は理解してくれてるのだろうか。

・そんな近くに段差がいくつもあるとは限らないので、わざとじゃないアピールができない時もある。その時はやっぱり「邪魔だ」と言わんばかりにベルを鳴らす嫌な運転をするやつに見られてるのかな。嫌だな。

・今思えば人に対してベル鳴らしたことないかも。子供の時に仲良い友達に対してベルをふざけて鳴らしたこととかはあるかもだけど、通行人に対して邪魔を表現するために鳴らしたことはない。

・そもそも歩行者の邪魔にならないところを走るようにしてるし、もし本当に人がいて通れないような状況があったら一度自転車を降りて小声で「すみません...」と言って通ってる。

・多分私という人間を少しでも知ってたら、通行人に対してベルを鳴らしたりしないってわかると思う。なので今回においてもベルが勝手に鳴ってしまったのだなとすぐにわかってくれると思う。

・でも見知らぬ通行人からしたら、私に対して見えてる部分は後ろからベルを鳴らしながら近づいてくるところだけだから、「嫌な運転をする嫌な人間」としか判断されてないかも。やっぱり嫌だな。

・でもこういうことって意外と多いのかもしれない。私が電車とかで嫌な人だなって思った人も、たまたま私がその嫌な部分だけを見てしまっただけで、普段は部下からも慕われてる素晴らしい社会人かもしれない。

・別にこれは見知らぬ人だけじゃなくて、親交のある人に対しても当てはまるよな。友達においても私が知ってるのは私が見れてる部分だけで、まだ見てない部分もあるはず。でも、それをつい忘れてしまって自分が見えてる部分だけで友達が構成されてると思い込んでしまう。そうすると友達に対して知った気になってるという状況に陥ってしまう。

・私が全てを見ることができた他者っていうのはいないはず。なので家族や友達についても私は完全に知っているわけがないのだ。それは薄情のような感じがするが、実際はその反対でそれを理解することでとれる相手の為の行動もある。

・他人に対しても「無知の知」を持つことが重要なことがわかった。やっぱりソクラテスは素晴らしいですね。少なくとも私の見えてる(知ってる)ソクラテスは。

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