十両在位1場所力士列伝 安芸の嶺良信編

十両の地位に生涯たった1場所だけ在位することができた男たちの土俵人生。
今回は代替わりした三保ヶ関部屋に久々誕生した関取、平成以降の繁栄に先鞭をつける存在となった安芸の嶺の土俵人生を追いかけていこう。

新弟子100人、ライバルに事欠かず


安芸の嶺良信こと永瀬良信は、昭和43年11月生まれで、広島県呉市の出身。
入門前に本格的な相撲の経験はなく、中学時代は前回の主人公・福ノ里と同じ野球経験者。余談ながら、同級生にはのちにヤクルト・ダイエーなどで活躍する西村龍次投手(現・野球評論家)がいた。
本格的な相撲経験はなかったが、小学校の時に出場した近所の相撲大会で同郷の貴羽山(宮城野部屋 当時十両)に胸を借りたのをきっかけに相撲が好きになり、昭和59年春場所、中学卒業と同時に、本名の永瀬で初土俵を踏んだ。
三保ヶ関部屋を選んだ理由は、テレビ番組で視たおかみさんが優しそうだったからだという(『相撲』平成3年12月号)。

この場所は104人が新弟子検査を受検、100人が合格して、実に戦後4番目(当時)の多さ。同期には松沢(佐渡ヶ嶽、のち関脇・琴錦)、湊富士(湊、のち幕内)、高野(押尾川、のち幕内・大至)、木村川(大島、のち幕内・旭豪山)ら錚々たる顔ぶれが揃い、三保ヶ関部屋にも永瀬を含め6人の力士が入門している。
ここで全員の経歴を述べることはしないが、ひとり、凡そ2年後に北の湖部屋へと移籍する村井の存在は覚えておいてもらいたい。

当時の三保ヶ関部屋(北の湖最後の優勝と代替わり)


春場所で前相撲を取った永瀬が序ノ口についた昭和59年夏場所、所属する三保ヶ関部屋は北の湖の2年ぶりとなる復活優勝に沸き立っていた。
永瀬や北の湖の内弟子として入門した村井ら新弟子組にとっては、雲の上の出来事でしかなかっただろうが、自らのデビュー場所(昭和32年初場所)に千代の山の全勝優勝を見た北の富士が、今も懐かしそうにその頃の思い出を語っているように、彼らにとっても忘れがたい記憶となったにちがいない。

同年秋場所後には9代三保ヶ関(元大関・増位山)の定年に伴い、息子の18代小野川(元大関・増位山)が10代目を襲って部屋を継承。空いた小野川には引退した播竜山(元小結)が収まり、部屋付きの年寄は11代待乳山(元幕内・増巳山)、10代清見潟(元幕内・大竜川)の3人に。
後述の通り、翌年1月限り北の湖が引退し、一時的に部屋付きとなったが、同年中には独立して再び4人体制。62年1月限り待乳山が定年退職すると、小野川が12代待乳山となって、以後は長く3人体制が続いた。

ともあれ、新体制のもとスタートを切った三保ヶ関部屋で、永瀬の相撲人生は本格的な幕を開けることになる。

初の7戦全勝(昭和60年夏場所)


昭和60年初場所、新国技館で燃え尽き、北の湖ついに引退。この場所、永瀬は右手首を骨折して入門以来初の休場を経験していた。幸い長期休場には至らず、序ノ口に陥落した春場所を1点の勝ち越しで切り抜けると、四股名を安芸の嶺と改めた翌夏場所、序二段120枚目の地位で初の7戦全勝を記録する。

安芸の嶺は「初場所で右手首を骨折して途中休場した。いまもまだおかしい。そのときの相手が今日(13日目)の相手(栃豊=春日野部屋)なんです」とは奇しき因縁。
その栃豊を右四つから寄り倒して全勝を決めた。
この場所も「3連勝した次の日の朝げいこで右ヒザを捻挫して、師匠は『休場しろ』といったけど、自分から『出ます』といって取った」(後略)

『相撲』昭和60年6月号170頁

この場所、6戦全勝としていたメンバーの中には、琴松沢、村井という同期生2人の名前も。しかし、彼らは最後の相撲で破れ、安芸の嶺ひとり華やかな決定戦の土俵に上がることができた。
もっとも、他の2人が7番目の相撲で最高位幕下10枚目の蕨川(片男波)や最高位十両の大富士(九重)とぶつけられたのに対し、安芸の嶺は(怪我をしたときの相手とはいえ)同期生で地力差がなく、しかも星違いの栃豊と組まれたのだから、割運に恵まれたというのが実際のところ。
決定戦では本割で村井を下した大富士に上手投げで破れ、関取経験者の強さを肌で感じる機会となった(優勝は続けて蕨川を押し出した大富士)。

続く名古屋場所、序二段二桁の枚数を一度も記録することなく三段目昇進を果たした安芸の嶺は、さすがに家賃が高かったか、あるいは手首や前場所に痛めた膝の具合も芳しくなかったのだろう、1勝6敗と崩れて序二段陥落。その後半年あまりを序二段の土俵で過ごすこととなる。
ただ、初土俵の頃に175㌢・85㌔しかなかった体つきは、7戦全勝を果たした60年夏に176㌢・104㌔、5場所ぶりに三段目返り咲きを果たした翌61年夏には178㌢・110㌔まで成長。着実なビルドアップを遂げながら再び三段目に足を踏み入れた安芸の嶺、番付の上でも、嶺を目指し上り詰めんとする時期が間近に迫っていた。

生涯唯一の各段優勝


昭和61年夏場所、5場所ぶりの三段目復帰を果たした安芸の嶺は、5勝2敗とこの地位で初の勝ち越し。さらに名古屋、秋と勝ち越しを続け、九州場所では初の幕下が見える東8枚目まで躍進した。

三十一~六十枚目では安芸の嶺(三保ヶ関)がいい。師匠の三保ヶ関親方は「勝負度胸がいい。ものおじしない性格はプロに向いている」と言っている。さかのぼって名古屋場所四勝、夏場所五勝、春場所五勝、初場所五勝とことし一年間負け越し知らずだ。闘竜のあと関取が絶えている三保ヶ関部屋だが、前田、安芸の嶺、そして東九十一枚目で六勝を挙げた賀位の山らが順調に育っている。新三保ヶ関親方の力士育成がいま注目される。

『大相撲』昭和61年11月号 114頁

正しくは闘竜(昭和54年初場所新十両)ではなく北天佑(昭和55年夏場所新十両)以来なのだが、どちらにせよ短くない期間新たな関取が途絶えている状況に変わりはなく、前田(のちの十両秀ノ海、昭和60年春初土俵)や安芸の嶺にかかる期待は大きかった。

もっとも、安芸の嶺は昇進チャンスの九州場所をまさかの7戦全敗で逸すると、翌62年は春場所から4場所連続負け越すなど試練の一年に。しかし、5場所連続勝ち越しからの全敗に沈んだ前年とは一転、この年は最後に喜びが待っていた。10場所ぶりに序二段まで番付を落とした昭和62年九州、自身初、そして結果的には生涯唯一となる各段優勝を成し遂げたのである。

なにより嬉しいのは「家では祖父が、足を悪くして歩けなくて、だいぶ前から寝たっきりなんですよ。相撲が好きだから、オレのことを楽しみにしているんです。今場所終わったら(広島県呉市の実家へ)帰ることにしてたんですけど、今年は初場所のあと全部負け越しだったからなんとかいい星を残したいと思っていました」というおじいさん孝行。
(中略)59年春場所の初土俵で同期のトップは琴錦(西幕下10)だが、これは中学相撲で鳴らした別格の超特急とあってターゲットは「太晨(北の湖部屋、本名・村井、東幕下48枚目)ですね。入ったとき一緒(三保ヶ関部屋)ですからね。競争してるんです。早く追いつきたいですね」と定めている。この全勝で一気に縮まるはずだ(後略)

『相撲』昭和62年12月号 75頁

決定戦の一番については、筆者の手元に映像が残っているので、特に詳しく取り上げておきたい。

安芸の嶺(内無双)名瀬錦
2年半前と同じ千秋楽優勝決定戦の土俵。今回の相手は同部屋の兄弟子名瀬錦(昭和51年春初土俵)だった。
兄弟子と言っても最高位は安芸の嶺が上、久々の序二段陥落だった安芸の嶺に対し、名瀬錦は2年近く序二段が定位置になっていたのだから地力の差がある。
立合い、少し早く立ち、左へずれ加減に出ながら右を差した安芸の嶺は左も上手。右を返して自分(115㌔)よりもさらに細い相手(95㌔)を起こすと、一呼吸のち、右へ体を開きながら上手を離して前に出ていた名瀬の右足を払い、土俵に這わせた。

持ち前の柔らかさを生かし、得意手の一つでもある内無双を決めた安芸の嶺。七番相撲では小岩井(出羽海、のちの小結・小城錦、現中立親方)を蹴手繰り(からの突き落とし)で破るなど、手癖、足癖の自在な活用から、その曲者ぶりがよく伝わってくる。
ともあれ、同部屋では1年後輩ながら先に幕下へ上がった前田、同期ではかつて同じ釜の飯を食った村井こと太晨(弥刀の湖ー村井を経て、62年初場所から太晨に改名)をライバルに、安芸の嶺は再び三段目上位の過酷な環境に身を置くこととなる。

じっくり掴み、がっちり定着


年は変わって63年、序二段優勝の余勢を駆ってすぐに新幕下といけば良かったが、現実は厳しく、この年は三段目上位と中位の往復に終始。110㌔台までは早かった体重もなかなか伸びず、120㌔に届かない時期が続いていた。
しかし、番付のどのあたりに壁があるかというのは、力士によって異なるもの。安芸の嶺にとって三段目上位の壁を越えるために費やした労力は大きかったが、平成元年春、西27枚目で5番勝って初土俵から5年で幕下昇進を果たすと、もはやその地位を容易く明け渡したりはしなかった。

新幕下の元年夏場所は、11日目に長身の高見若を得意の蹴手繰りに仕留めて勝ち越し。翌名古屋こそ1点の負け越しに終わるも、秋場所からは3場所連続の勝ち越しで、2年春場所は上位目前の東21枚目まで浮上。取り組んできたウエイトトレーニングの成果も現れ始めたか、体重もついに120キロを突破している。

この時期、ベテラン闘竜が引退してさらに関取が減ったとはいえ、急成長する安芸の嶺に追い越されまいと初の幕下一桁を記録した秀ノ海(元年春に前田から改名)、元年初場所の三段目優勝で勢いづき、初の15枚目以内を記録した龍勇児(昭和55年九州初土俵)、また重量級のホープ万壑雷(ばんがくらい 昭和61年初初土俵)や郡山(昭和62年春初土俵)も幕下目前まで番付を上げ、長らく沈滞していた部屋のムードもにわかに盛り上がりつつあった。

同期生に目を移せば、トップランナーの琴錦(佐渡ヶ嶽)は早くも幕内で上位総当り圏内に進出、2番手として旭豪山(2年夏新入幕)が続き、芳昇(熊ヶ谷 2年名古屋新十両)も間もなく第3号の関取へ・・・という頃合い。
一方、この代で一番最初に幕下へ上がった村井(北の湖)は三段目と幕下を往復どころか、1年以上も幕下に戻れず、せっかく貰った太晨のしこ名も返上のやむなきに至っていた。
水をあけられた安芸の嶺との出世競争、ライバル物語の行方やいかに。

関取不在部屋の部屋頭に


平成2年夏場所、東28枚目の安芸の嶺はおよそ4年半ぶりに弟弟子・秀ノ海の番付を抜き、幕下以下の力士に限った序列で先頭に躍り出る。この場所を4勝3敗と勝ち越し、迎えた名古屋場所でも好調継続。中日に前場所三段目優勝で一気に番付を上げた武蔵丸(のち横綱、現武蔵川親方)を引き落とし、11日目には前回の主人公福ノ里を送り出すなど5勝2敗の星取りで、翌秋場所は初の15枚目以内を飛び越え、一気に東10枚目まで番付を上げることとなった。

そして、この場所の途中に大関北天佑突然の引退、二十山襲名。名門三保ヶ関部屋は昭和42年夏場所以来、およそ23年ぶりに関取ゼロの事態に陥ったのである。
この場所も「幕下以下最高位」を維持していた安芸の嶺は都合、部屋頭代行となり、さらに東14枚目の翌九州場所で正式に部屋頭へ。
しかし、喜んでばかりはいられない。年寄5人、関取ゼロの歪な体制と化した部屋の「孝行息子」として、いち早く関取の座を掴まねばならないのだ。連敗スタートからの4連勝で勝ち越し、収め場所を締めくくった安芸の嶺にとって、勝負の平成3年が幕を開けようとしていた。

躍進を支えた「激肥り」


平成3年初場所を自己最高位の西8枚目で迎える安芸の嶺。長らく北天佑や闘竜の引退・断髪式等の話題が続いた『相撲』誌「部屋別聞き書き帖」も、平成3年1月号では久方ぶりの名指しで新年の注目力士に挙げている。

関取ゼロ解消の期待が安芸の嶺に
◇三保ヶ関部屋の“部屋頭"は安芸の嶺。九州場所は東幕下14枚目で4勝3敗と勝ち越し。初場所は幕下1ケタの地位で相撲を取る。いままでの最高位は秋場所の東10枚目。「琴錦関と同期生なんです」と安芸の嶺。昭和59年春場所が初土俵だ。『本場所の土俵で一場所でも早く琴錦関と対戦するようになりたいですね」。相撲巧者ぶりは定評がある。課題は「やはり立ち合いだろうね。相手に嫌がられる立合いをしなければいけない。体力的に恵まれているわけではないのだから、先手必勝でいかないと・・・・・・」と三保ヶ関親方。

『相撲』平成3年1月号 89頁

ところがこの時期、その「体力」にめざましい進化が訪れる。『相撲』平成3年3月号記載の125㌔に対し、同5月号では133・9㌔に急増しているのだ。前回の福ノ里編と同じ流れになってしまい恐縮ではあるが、やはり軽量の力士にとって体重の増減は見過ごせない要素。
大幅に増えた体重で3月場所(西12枚目)を勝ち越すと、短期間にして師匠の論調も変わり始める。

「体が大きくなってきたし、前に出るようになってきた。もともとうまい相撲を取るし、体力がついて前に出るので、スピードが生かせるようになった」と三保ヶ関親方も大いに期待をかけている。

『相撲』平成3年5月号 121頁

こうなると勢いは止まらない。5月、西10枚目で4勝3敗と勝ち越して7月は初の5枚目以内(東5枚目)。11日目、同期生でやはりこの場所が最高位の湊富士を寄り倒して勝ち越し、9月はついに西2枚目、関取待ったなしの番付にまで上り詰めたのである。

喜びのとき、同期生とともに夢を叶える


3場所連続の4勝3敗、新十両に向けてじわじわ番付を上げる安芸の嶺の傍らで、もう一人急激な上昇カーブを描く男がいた。この記事でも再三動向を取り上げてきた同期生の村井である。
平成2年秋場所まで連続8場所三段目に甘んじ、太晨の四股名を返上したところまではすでに記したが、同九州場所で1年半ぶりに幕下へ返り咲くと、そこから5場所連続の勝ち越し。悪癖の安易な叩きが顔を覗かせなくなり、従来の最高位であった幕下40枚目を軽々と飛び越えて15枚目~一桁にまで進出。3年夏、名古屋では安芸の嶺とも対戦し、連勝している。
3年秋は西筆頭。番付で安芸の嶺(西2枚目)を上回ったのは、元年夏場所以来14場所ぶりのことであった。同期同部屋入門、その後袂を分かった2人が、同じ場所で新十両を目指し競い合う、運命的な秋場所がやってきた。

2人の対戦は、ともに黒星スタートで迎えた4日目。入り込んだ安芸の嶺に対し、村井の首投げが炸裂して3場所連続で村井の勝利。村井はその後9日目に同期の一人である十両・剣岳を叩き込むなど1勝2敗からの3連勝で一足早く昇進有力の星を獲得。
一方の安芸の嶺は、3番目の相撲で十両経験者琴白山(佐渡ヶ嶽)を得意の内無双に沈め初日をあげるも、翌日は十両大鈴木(のち豊富士)に敗れ、早くも土俵際に追い詰められる。しかし、ここから取り口同様に粘りを発揮。9日目、同じく最高位の大日岳(玉ノ井、のち十両、現世話人)を上手投げ、11日目には十両経験者龍ヶ浜(時津風)を寄り切って星を五分に戻すと、翌12日目、最後の一番へ・・・
相手は十両の和歌乃山(武蔵川、のち小結)。低く粘っこい相手を見事引き落としに破り、怒涛の3連勝で勝ち越し決定。13日目以降、当落線上の十両力士が軒並み崩れたこともあり、晴れて新十両への扉は開かれた。
むろん村井のもとにも朗報は届き、太晨と再改名。同期の2人が争った十両昇進レースは、明暗を分けることも、共倒れになることもなく、両者に等しく人生最良の日を用意する極上の結末を見た。
三保ヶ関部屋にとっては当代の部屋継承以降7年目、北の湖部屋にとっては独立から6年目にして初の関取誕生。この後、多数の関取を生み出すこととなる両部屋の歴史に夜明けを告げるかのような慶事であったと言えるだろう。

その後の安芸の嶺


新十両場所の安芸の嶺は残念ながら力及ばず、10日目に早々と負け越し。11日目以降に3勝をあげる踏ん張りを見せるも、1枚半上の番付で同じく5勝10敗に終わった村井ともども、翌場所の幕下陥落が決まってしまった。
5勝の内3番が叩き込み、1番が肩透かしと、磨きをかけてきた四つに組んでからの寄り身や投げ技に勝機を見いだせず、苦しい土俵となったようだ。

「貴花田みたいな正攻法はできません。いろいろなことをやって勝ちにつなげるのが自分の相撲です」。個性派の次回チャレンジに期待したい。

『相撲』平成3年12月号

過去2回の主人公が遅咲きの新十両力士だったのに比べ、安芸の嶺はまだ23歳となったばかり。これからまだまだ体も大きくなるし、地力も伸ばしてくる、再十両もいずれ実現させるだろうと思われた。出直しとなった4年初場所には学生相撲出身の強豪、坂本山(肥後ノ海、のち幕内、現木瀬親方)と濱洲(濱ノ嶋、のち小結、現尾上親方)が三保ヶ関部屋から幕下付け出しデビュー、発奮材料にも事欠かぬはずであった。

しかし、結論から言うと、安芸の嶺は1学年下にあたる彼らと改めて熾烈な出世競争を演じることはできなかった。新十両の翌場所(平成4年初場所)西3枚目で2勝、続く春場所は11枚目で1勝に終わると、その後は長く15枚目以内にも戻れず低迷、1年2年と時は経ち、いつしか初土俵から10年以上、中堅と呼ばれる域を通り過ぎようとしていた。
そんな平成6年夏場所には久々にあの力士との「再会」も。安芸の嶺と同じように十両に戻れず、再起を目指し幕下で奮闘していた村井(太晨を再び返上し、6年初場所から本名に戻る)である。およそ2年半ぶりとなったこの対戦に敗れた村井は、2場所後に廃業。一方、勝った安芸の嶺は縁深き同期生から力を貰ったかのように、ここから4場所連続の勝ち越し。年が明けて平成7年初場所には、およそ3年ぶりに15枚目以内へと返り咲いた。

今度は一桁番付へのカムバックを目指し奮闘する安芸の嶺、しかし3勝3敗で迎えた千秋楽、同郷の後輩北桜(北の湖)に押し倒されて負け越すと、その後は力尽きたかのように5場所連続で負け越し、7年秋場所に6年半ぶりの三段目落ちを経験すると、平成8年初場所、3場所ぶりに戻った幕下で2勝5敗と負け越したのを最後に廃業を決断。まだ27歳と取り盛りではあったが、十両から落ちてすでに4年以上。当時としては特段早いというタイミングではなかったように思う。

平成8年初場所といえば、三保ヶ関部屋では日大勢の次なる目玉として学生横綱の柳川(のち十両増健)がデビューを果たした場所。そのためか、『相撲』の「部屋別聞き書き帖」には安芸の嶺引退に関する情報は掲載されておらず、功労者の船出としては寂しさを禁じ得なかった。
平成7年九州場所後には十両3場所を経験した秀ノ海も引退し、先代弟子、或いは先代存命中に入門した力士はすべて土俵を去ることに・・・
ちょうど先代の13回忌を終えた時機、三保ヶ関部屋は円熟期に入った肥後ノ海・濱ノ嶋を中心に新たな時代へ入ろうとしていた。


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