白鵬と五輪書 序ノ弐 観の目と見の目 基礎編

前回の記事

前回は白鵬の取り口における特異性として2つの戦術を紹介したが、ここで単純な疑問が湧いてくる。
つまり、そのような立合い、すなわち相手の些細な重心の変化を逃さず先手を取るような立合いを、どこまで狙いすまして仕掛けられるのかという問題である。
映像を見返すと、たしかに相手の体勢が崩れた(踵重心・つま先重心など)ところで抜け目なく立っているように見えるのだが、なにしろコンマ何秒の差が勝敗を分ける世界、「踵に乗った!」と気付いてから立っているようでは相手の隙を突くことなどできず、また上体に力みが生じるなどして、踏み込みの質自体も乱れやすくなってしまうのではないか。
だとすれば、そのような欠陥を晒さずして先手を取るべく、白鵬はどのような工夫をしているのだろう。より具体的に書けば、相手のどの部分を見て体勢の崩れを感じ取っているのだろうか・・・

無論本人に聞くことができれば一番良いのだが、そういう立場にない者は根拠となるような材料を探しつつ、想像の力に頼るほかはない。
今回も五輪書を紐解き、ヒントを探っていくこととしよう。

一 兵法の目付と云事

五輪書・水の巻
一 兵法の目付と云事
目の付やうは、大キに広く付る目也 。観 見 二ツの事 、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事兵法の専也 。敵の太刀をしり、聊敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也 。工夫有べし。
(中略)目の玉うごかずして、両わきを見る事肝要也 。かやうの事、いそがしき時俄にはわきまへがたし。此書付覚え、常住此目付になりて、何事にも目付のかわらざる所、能々吟味有べきもの也。

【訳】
戦闘の際の目くばりは、大きく広くくばるのである。
観、すなわち物ごとの本質を深く見きわめることを第一とし、見、すなわち表面のあれこれの動きを見ることは二の次とせよ。
離れたところの様子を具体的につかみ、また身近な動きの中から、その本質を知ることが兵法の上で最も大切である。敵の太刀の内容をよく知り、その表面の動きに惑わされぬことが何より肝腎である。
(中略)目の玉を動かさぬままにして、両わきを見ることが大切である。こうしたことは、せわしい中で急に身につけようとしても駄目であって、この書物をよくおぼえ、平常からこのような目つきとなり、どのような場合にもそれが保たれるよう、十分に研究すべきことである。
(宮本武蔵「五輪書」 神子侃訳 徳間書店 81頁)

目の玉を動かさず、両わきを見ろ

一見、哲学的・抽象的なアドバイスにも感じるが、その上で「目の玉を動かさずに両わきを見ろ」という具体的な技法に言及しているのが興味深いポイントであろう。
この点について、魚住孝至氏は

目を見開いて普通に見ている時には、心が外に向かって、気付かないうちに眼球はかなり動いています。そのため、焦点はその都度いろいろな対象へと移っており、それ以外の背景や両脇は見えなくなっています。
これに対し、目を少し細くして目の玉を動かさず、近くのものでも遠くを見るようにすれば、目はいちいちの対象にとらわれず、周り全体を視野に入れることができます。気が外に取られず、正面を見ながら同時に左右両脇まで見えるのです。
(NHKテキスト100分de名著 宮本武蔵「五輪書」41頁)

と解説しているが、このような指摘は白鵬の立合い(あるいは取り口全般)における視野の広さにも関係がありそうだ。踵重心になった、つま先重心になった、と表面の動きにとらわれて眼球を動かすのではなく、広く状況全体を見渡していく力。
神子侃氏は「空の巻」において、「観の目と見の目」を「判断力と注意力」と訳している(前掲「五輪書」223頁)が、この2つを一体のものとして、少しの遅滞もなく、力みもなく、自然と操縦できる状態こそが「観の目つよく、見の目よはく」の実践型であり、白鵬の目指した境地と言えるのではないか。
逆に言えば、対戦相手を目先の動きに固執させ、状況把握能力を奪い、すなわち「見の目つよく、観の目よはく」の状態に陥らせてしまうことで、戦う前からすでに自分優位の形勢を築いているということになるのだろう。


以上のような内容を踏まえた上で、次回は「観と見」2つの目の応用編。「風の巻」の記述を中心に、より派生的な論点にまで足を伸ばしてみたいと思う。


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