白鵬と五輪書 序ノ参 観の目と見の目 応用編

前回の記事

実は「五輪書」の中に、前回提示した疑問ー白鵬は立ち合いの際に相手のどの部分を見ているのかーへの手がかりをよりダイレクトに得られる部分がある。
「観の目・見の目」の基本を押さえたところで、今回はより核心に近いところへと迫っていこう。



一 他流に目付と云事

五輪書・風の巻
一 他流に目付と云事
目付といひて、其流により、敵の太刀に目を付るもあり。亦は手に目を付る流もあり。或は顔に目を付、或は足などに目を付るもあり。其ごとく、とりわけて目をつけむとしては、まぎるゝ心ありて、兵法のやまひといふ物になるなり 。
其子細は、鞠をける人は、まりによく目を付ねども、ひんすりをけ、おいまりをしながしてもけまわりてもける事、物になるゝとゆふ所あれば、慥に目に見るに及ばず。又はうかなどするものゝわざにも、其道になれては、戸びらを鼻にたて、刀をいく腰もたまなどにする事、是皆慥に目付とはなけれども、不㆑断手にふれぬれば、おのづから見ゆる所也 。
兵法の道におゐても、其敵/\としなれ、人の心の軽重を覚へ、道をおこなひ得ては、太刀の遠近遅速迄もみな見ゆる儀也。兵法の目付は、大形其人の心に付たる眼也 。
大分の兵法に至ても、其敵の人数の位に付たる眼也 。観見二ツの見やう、観の目つよくして敵の心を見、其場の位を見、大きに目を付て、其戦のけいきを見、其おりふしの強弱を見て、まさしく勝事を得る事専也。
大小兵法において、ちいさく目を付る事なし。前にもしるすごとく、濃にちいさく目を付るによつて、大きなる事をとりわすれ、まよふ心出きて、慥なる勝をぬがすもの也。此利能々吟味して鍛錬有べき也。

【訳】
他流では、目付と称して、流儀々々により或いは敵の太刀に目をつけるもの、手に目をつけるもの、または顔、足などに目をつけるものがある。このように、とり立ててどこかに目をつけようとすれば、それに迷わされて、兵法のさまたげとなるものである。
その理由をのべよう。たとえば、蹴鞠をする人は、鞠に目をつけているわけではないのに、さまざまな蹴鞠の技法において、たくみに蹴ることができる。ものに習熟するということによって、目で一々見ている必要がなくなるのである。また曲芸などをする者も、その道に熟達すれば、扉を鼻の上にたてたり、刀を幾腰も手玉にとったりする場合、これも亦、いちいち目をつけているわけではないが、平常から扱いなれていることによって、自然とよく見えるようになるのである。

兵法の道においても、その時々の敵とのたたかいになれ、人の心の軽重をさとり、武芸の道を会得するようになれば、太刀の遠近、遅速まで、すべて見とおせるものである。兵法の目のつけどころといえば、それは相手の心に目をつけるのだといえよう。
大勢の合戦にあっても、その敵の部隊の真の力(エネルギー)にこそ目をつけるのである。観と見の二つの見方のうち、観すなわち事物の本質を見きわめることに中心をおいて、敵の心中を見ぬき、その場所の状況を判断し、その合戦がどちらに分があるか、その時々の敵味方の強弱までを把握することによって、確実に勝を得ることができるのである。
大勢の合戦でも、一対一の勝負でも、細かい部分に目をとらわれてはならない。前にものべたように、細かな部分々々に目をつけることによって、大局を見おとし、心に迷いを生じて確実な勝利をとり逃がしてしまうものである。この道理をよくよく研究し、鍛錬するように。
(宮本武蔵「五輪書」 神子侃訳 徳間書店 203-205頁)


囚われる心

武蔵は、勝負に際して特定の場所に目をつけるべしという他流の指導を否定する。「どの場所に目をつけるべきか」と考えること自体が生兵法の類であり、「兵法の病」に囚われている状態なのだろう。
多くの力士は、白鵬に対して一つの決め事だけを手に立ち向かおうとするが、「拍子の逆を攻める」技能を持つ白鵬に対し、そのような視野狭窄ぶりは忽ちに見抜かれてしまう。
毎回のように立合いで呼吸をずらされる某力士へのアドバイスとして「待ったをすればいい」と言った人がいたけれど、もしも「待った」に成功したとて、白鵬にとって特段のダメージはない。1度目で相手の狙いを察知できたのだから、今度は別の引き出しから「拍子の逆を行く」ための策戦を持ち出せばいいのである。この手の駆け引き合戦で、継続的に白鵬を上回ることができた力士は一人としていなかった。

相手の心に目をつける

もちろん、こうした狭い視野の中に相手を拘束してしまえるのは、従前の対戦によって築いてきた布石所以。
「その時々の敵との戦いにな(慣)れ」というのは、様々なタイプの敵と対決を重ねて経験を積み、戦いに慣れるという意味が第一義だとは思うが、大相撲の場合、一人の相手と何度も対戦を重ね、(その相手と)戦い慣れるという要素も極めて重要になる。何年にもわたる対戦歴の中で、相手の型や技術だけでなく、その心中までも深く研究・分析することによって、ときに思いもつかぬような策戦で脅かし、本質とは言い難い細かな焦点の中に相手を閉じ込めてしまう。
「目のつけどころは相手の心である」と言われても抽象的に聞こえるかも知れないが、横綱後期の白鵬と対戦経験のある力士たちが一様に
「何をしてくるかわからない」「いつも違うことをやってきた」「自分なりに準備をしても裏をかかれてしまう」
などと漏らした感想を聞けば、「大局を見おとし、心に迷いを生じて」いた状態が手を取るように分かるだろう。また、大一番と称される取組において、白鵬の勝利に「心理戦・神経戦」の形容が多くなされたことも思い起こされるのではないか。


道理を理解しながら鍛錬する

「われわれは、とかく些細な現象に囚われがちだが、現象の背後にひそむものを見ぬくためにはどうすればよいか?武蔵は一つの実例として、蹴鞠や曲芸の例をひき、訓練を強調している」
(前傾「五輪書」207頁)

「結局、鍛錬あるのみ」とはどんな指導者でも口にする常套句だが、大事なのは道理を理解しながら己を磨くこと。道理とは「大キに広く付る目」であり、「観の目つよく、見の目よはく」である。この前提を誤ると、せっかくの才能も持て余したまま、成長のために重要な時期を徒過してしまう。

もっとも、筆者に分かるのはここまでだ。鍛錬に鍛錬を重ねた向こう側の景色は到底見通せるものではないし、言葉でとやかく語り尽くせるものでもないのだろう。
一つだけ示せることがあるとすれば、明確な終着点はないということ。道理をもとに、絶えず分析・研究・鍛錬を重ね、「兵法の道」と共にある。
横綱白鵬は、まさしくそのような土俵人生を歩み続けた人だった。そして、これから始まる指導者としての「道」においても、進むべき方向性に大きな違いはないのだと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?