十両在位1場所力士列伝 出羽の郷秀之編

前回の主人公山中山(間垣)が初土俵を踏んだ翌場所、すなわち昭和61年5月、一人の少年が名門・出羽海部屋の門を叩いた。
いよいよ連載最終回、身長179.5㌢・体重88㌔の15歳が、19年の歳月をかけて「十両在位1場所」の栄光を掴むまでの長い物語が始まる。

初土俵同期最上位は小結巴富士


出羽の郷秀之こと川原秀之は、埼玉県三郷市出身。入門前に相撲経験はなく陸上部に所属していたが、中学校の先生が出羽海親方(元横綱・佐田の山、のち出羽海→境川理事長)と知り合いで、親方自ら学校を訪れ、入門する運びとなった。
「就職場所」の春ではなく、夏場所のデビューということで同期生は15人。もっとも出世したのは小結まで行った巴富士の黒澤だが(九重)、実は黒澤、本来は3月デビューの予定が内臓検査に引っかかって不合格、翌5月で再検査を受けたという事情があり、もしスンナリ3月に受かっていれば、出羽の郷がこの代唯一の関取ということになっていた。

当時の出羽海部屋にも触れておくと、幕内で頑張る出羽の花(最高位関脇、のち年寄出来山)、佐田の海(最高位小結、のち年寄田子ノ浦など)、大錦(最高位小結、のち年寄山科)のベテラントリオは揃って2年後に引退。次代を担う存在として学生出身の小林山(両国、最高位小結、現境川親方)、出羽の洲(最高位十両)、山崎(山錦、最高位十両)、西乃龍(常の山、最高位前頭12)らがいて、当代出羽海こと小岩井(小城ノ花、最高位前頭2)や龍興山(最高位前頭5)らのホープも、間もなく幕下へ上がろうかという時期にあった。
往時の隆盛に及ばないのは当然としても、力士数は35人を数える文句なしの大世帯。川原にとって見れば、幕内の3人はおろか、幕下上位で腕を撫す若手力士たちでさえ、雲の上の存在に見えたことだろう。
川原が彼らの域に達する=初めて幕下15枚目以内へ進出するのは、およそ16年後、平成14年秋場所のことである。

三段目昇進まで4年


過去この連載で取り上げてきた4人のうち、新三段目に費やした場所数がもっとも多いのは大石田で、初めて序ノ口についてから数えれば11場所目、およそ2年であった。
翻って、川原の場合は、この段階からして歩みが違う。序ノ口を5場所かけて通過した後、序二段にあり続けること19場所。実に4年以上を序二段以下の地位で過ごしている。
これくらい時間がかかってしまうと、専門誌からも有望力士認定を外されてしまうのかどうか、もちろん所属部屋の規模が大きいこともあるのだろうが、情報を得る手段として頼みの綱となるべき『相撲』誌「部屋別聞き書き帖」にもまったく名前が挙がらない。
それゆえ、この時期の動向を知るためには、無機質な星取表(『相撲』誌展望号末尾に載っている略歴付全力士星取表)の中から情報を拾い出していくほかないわけで・・・
一例として、めぼしいものを箇条書き形式で抜き出してみると以下のようになる。

・初めて取り口に「左差し食いつき」の表記がなされる(『相撲』平成元年5月号。3月の番付は序二段西55枚目)。
・平成元年9月、出身地の三「郷」から取った出羽の郷に改名。この場所、序二段西73枚目目で入門後初の6勝と大勝ちして、翌11月は最高位を大きく更新する東6枚目へと躍進する。
・この場所では、初めて体重が100㌔を突破、身長はデビュー時から少し伸びて181㌢に(『相撲』平成元年11月号)。

そして、平成2年夏には東24枚目で4勝3敗と勝ち越し、名古屋での新三段目昇進が決定。ここでいきなり5勝2敗の好成績を収めると、頑張りを認められ(?)『相撲』誌に初めてプロフィール以外の情報が掲載された。
この時代の『相撲』を読んでいた方々なら記憶にあるかもしれない。上述した「全力士星取表」の下部余白を活用した「幕下以下力士・ひとこと紹介」という小さなスペースである。

出羽の郷
左差して前に出る相撲が理想。部屋の関取衆がよくけいこするから、自分も負けないようにしないといけない。

『相撲』平成2年9月号166頁


改めて引用すると情報とも呼び難いくらいの代物ではあるのだが、初土俵から1号ずつ『相撲』ないし『大相撲』誌に当たり続けて、たったこれだけでも何か書かれているものが見つかったという安堵感は、このマニアックな連載においても初めての体験。
読者の方々には、それこそどうでも良いことなのかもしれないが、書かずにはいられなかった心中をお察しいただければと思う。

ちなみに、この名古屋場所では同期の巴富士が19歳にして新十両昇進。1期上の61年春初土俵組にも十両経験者大鈴木(豊富士、最高位十両)をはじめ、幕下上位へ進出する力士が次第に増えつつあった。
こうして、同期や限りなく同期に近い力士の中にも「雲の上」の存在が現れ始める中、新三段目の出羽の郷はやっと「雪駄の喜び」を味わったばかり。

これだけの差がやがて埋まり、2つの土俵人生に重なり合う瞬間が訪れるのだから面白いというかなんというか・・・次項ではそんなテーマにも手を伸ばしてみたい。

2度の6戦全勝


平成2年名古屋場所、初土俵から4年かけての新三段目場所で5勝2敗と勝ち越し、ようやく専門誌にも名前の載る対象となった出羽の郷だが、その後はまたも長きにわたり音沙汰がなくなってしまう。

好成績が見当たらないわけではない。平成3年から5年にかけて3度も6勝1敗の大勝ちを記録しており、中でも平成3年九州と5年夏は最初の相撲から6連勝で各段優勝にもう一歩のところまで迫っていた。

平成3年九州は西三段目83枚目。初土俵以来初めて休場した2年九州以降、怪我に悩まされ、一時は序二段下位まで番付を下げるも、3年名古屋6勝・3年秋5勝で、この場所は1年ぶりとなる三段目の土俵であった。
最高位に近い番付でも勢いは止まらず、下手投げ・掬い投げで2勝、うっちゃりで1勝と、得意とする食い下がっての攻めやしぶとさを大いに発揮しながら連勝街道を行く。
しかし、6戦全勝が3人となったため、星違いで5勝1敗の若鷲(押尾川、最高位幕下27枚目)と合わされてしまったのが運の尽き。前場所幕下で途中休場し、大きく番付を落としていた実力者相手ではいかにも分が悪く、押し出されて優勝の望みは絶たれた。

3年下半期以来の好調を受け、4年名古屋では幕下の見える西15枚目まで浮上。スンナリ幕下昇進とはいかずも、よく中位以上に定着していたが、5年春場所、自身初となる全休で一気に序二段まで後退。すると、翌5年夏、家賃の安い番付(序二段西17枚目)で2度目の6戦全勝を記録する。
この場所は、そうした地位ということもあり、決まり手も押し出しで3勝、寄り切り・寄り倒しで3勝と前に出る相撲が取れていたよう。
対戦相手も、4勝目をあげた岸本(護国山、間垣、最高位幕下12枚目)など、のちに幕下まで進んだ骨のある相手が4人。ちなみに、6勝目の相手・芳東(玉ノ井、最高位三段目35枚目)というのは、現役の元幕内とは別の力士。170㌢台半ばの身長に100㌔そこそこの体重で、当代とは正反対の体躯であった。

6番目の相撲を終えて、序二段の全勝は5人。最後の一番、番付通りであれば出羽の郷は西15枚目の山内(天承山、最高位三段目25、のち格闘家)と対戦するところだが、2人は同部屋。これがまたも不運の原因となった。
山内がぶつけられたのは、近大相撲部OBで、後年白鵬の入門に関わったとも言われる朝井(訪竜、宮城野、最高位幕下11枚目)、出羽の郷の相手は、埼玉栄高OBの岡本(のち栃ノ巌を経て、幕内栃栄、現三保ヶ関親方)。
いずれも前場所序ノ口に載って、この場所序二段へ昇進したアマチュア界の強豪だった。兄弟子としてなんとか意地を見せたかった出羽海勢だが、すでに幕下級の強さを誇る「2強」には通じず(出羽の郷は押し倒しで敗れる)、こうして2度目のチャンスも潰えることとなってしまった。

長い三段目生活にケリ


翌5年名古屋場所以降、怪我をする以前のように三段目中位以上を保ち、着々と上位進出の機を窺っていた出羽の郷。体重も110㌔台後半まで増え、勝ち負けともに多かった、うっちゃりの決まり手も姿を消していた。
平成6年九州、およそ2年半ぶりに最高位を更新すると(東13枚目)、半年後の7年夏場所、4番目の相撲で隆尾崎(鳴戸、のち関脇隆乃若)を寄り倒すなど東22枚目で5勝2敗の成績を収め、翌名古屋場所でついに幕下昇進。初土俵から9年、新三段目から数えても5年の月日を費やして、24歳の新幕下力士が誕生したのである。

新幕下の名古屋場所、5番目の相撲では元幕内の立洸(立浪)と対戦。敗れたものの、この場所4勝3敗と立派に勝ち越し。一度三段目に落ちるものの1場所で返り咲いて、自己最高位更新(西46枚目)で新年を迎えることとなった。

同期生の元小結と生涯唯一の対戦。


平成8年初場所、出羽の郷は最初の相撲で福薗(元十両鶴ノ富士、井筒)、4番目の相撲で星安出寿(元十両、陸奥)の関取経験者を連破すると、5番目の相撲では思わぬ相手との「初顔」が待っていた。同じ昭和61年夏場所初土俵の同期生で、最高位小結の巴富士である。
出羽の郷にとっては、視界の遥か先で相撲を取っていた「雲の上」の存在も、長きに渡る怪我との闘いから、ついに前年夏場所限り十両の地位を明け渡し、この場所は幕下東48枚目。昭和63年名古屋以来、実に7年半ぶりで両者の番付が入れ替わっていた。

そんな巡り合わせで実現した両者の対戦、制したのは・・・寄り切りで出羽の郷!
初めて三役経験者ーそれも特別な相手ーを下しての勝ち越しは格別な味がしたことだろう。
そして、結局これが2人にとって唯一の対戦に・・・巴富士はその後幕下上位を主戦場として3年近く頑張ったが、十両復帰は叶わず、平成10年秋場所限り引退。まだ27歳の若さであった。
出羽の郷が新十両昇進を果たすのは、それからおよそ6年半も後のこと。「超早熟」と「超晩成」、お互いが最高位を記録した場所で比べれば実に13年差!
本記事が対照的な2人の相撲人生に改めて光を当てる機会となれば幸いである。

幕下中位を抜け出せず・・・


同期生の元小結巴富士をはじめ、関取経験者3人に勝って平成8年初場所を勝ち越した出羽の郷。同年は4度の勝ち越しで番付を西30枚目まで押し上げると、翌9年初場所は僅かに最高位更新の東29枚目で迎えることに。体重も120キロ突破とさらに増え、26歳の遅咲きがいよいよ花を咲かせる時期かに思われた。
しかし、今度は幕下中位の難関が出羽の郷の前に立ちはだかる。下位で大きく勝ち越し、番付を戻しても、30枚目近辺に来ると勝ちきれずに行ったり来たり・・・
そんなことが期間にしてほぼ4年!これだけ時間がかかっても、土俵人生にはまだまだ先があるのだから本当に途方もない長さである。

平成12年夏、小結魁皇が悲願の初優勝を果たし、新鋭雅山が大関取りを成就させた場所で、西40枚目の出羽の郷は5勝2敗と好調。翌名古屋場所は29歳にして実に3年半ぶりの最高位更新(西25枚目)だ。出世の遅さもここまでくれば目立ち始めるのだろうか。『相撲』平成12年7月号(155頁)がその活躍を取り上げている。

出羽の郷(出羽海)が5連勝で名古屋は過去最高位の29枚目を塗り替えそうだ。「立合い踏み込んだので、相手より先に自分の四つになれた」のがよかったと話す。そのため須磨ノ富士(中村)戦のように「突っ張る相撲じゃないけど」と突き返して逆転勝ちに漕ぎ着けていた。

『相撲』平成12年7月号155頁

この名古屋場所でも勝ち越した出羽の郷は、翌秋場所で東19枚目と初めて幕下20枚目以内に足を踏み入れた。

出羽の郷が最高位で勝ち越し
◇・・・初土俵(昭和61年5月)から15年目を迎える出羽の郷(本名・川原秀之、29歳)が自己最高位の西幕下25枚目で、12日目重櫻(中村)を上手投げに下して勝ち越し。
「2年前の名古屋で左肩を痛めてから苦しかったけど、やっと自分の相撲が取れるようになった。同期には巴富士関、1期上には巌雄関(現・準年寄)らがいます。できるだけ上を狙いたいですね」

『相撲』平成12年8月号 104頁

初の15枚目以内進出と左膝負傷


久々の最高位更新から1年半ほど経った平成14年春、31歳になった出羽の郷の番付は西49枚目。上位の壁はいかにも厚く、またも中位近辺を行き来する場所が続いていた。
もっとも、この辺りまで落ちると地力が違うのも確か。自身3度目となる6連勝で、最後の相撲に勝てば初の各段優勝達成。相手は怪我で番付を落としている幕内経験者・五城楼(間垣、現濱風親方)だった。

最高位に迫る出羽の郷
東筆頭の五城楼に、勝てば優勝という一番を挑んだのが、49枚も下の出羽の郷(出羽海)。気負って突っ掛けたものの受けてもらえず、黒房下に余裕で突き出されてしまったが、力の相違で仕方がない。
(中略)結構大勝ちが多く、この欄にも登場するのだが、「波があるんですよ」と苦笑する。
これまでの最高位は、一昨年秋場所でマークした東19枚目。部屋では最古参となり、「同じ昭和61年初土俵で上がった人は、巴富士、巌雄、若隼人なんかがいるけれど、今一番上は高見花」とあって、夏場所にも入れ替わるだろう。「高見花とはよく話しますよ」と。残り少ない貴重な戦友だ。
(中略)今は師匠(元関脇・鷲羽山)付き。夏場所は遅まきながら自己最高位に迫る。

『相撲』平成14年5月号 153頁

3年2ヶ月ぶりに6番勝って気を良くしたのか、好調は続き、同年名古屋には西29枚目で5勝2敗。やや番付運にも恵まれて、秋場所は2年ぶりの最高位更新=初の15枚目以内となる西14枚目に躍進した。ここでは1勝6敗と跳ね返されたが、32歳となった翌場所以降、元気に3場所連続勝ち越して、平成15年夏場所はまた西18枚目にカムバック。はや入門18年目、今度こそ上位進出への足がかりとできるか。

しかし、待っていたのは残酷な現実だった。3日目の小戸龍(押尾川、最高位幕下3)戦、胸が合う体勢から、体を入れ替えるようにして強引に抜き上げるも、土俵際うっちゃりで返されて敗戦、この時に左膝を痛めて休場となってしまう。西53枚目まで落ちた翌場所も公傷で休み、自身初めて2場所連続の休場を強いられたのだ。

迎えた秋場所、幕下下位からの再起を目指した出羽の郷だが、今までなら格の違いを見せていたこの番付でよもやの7戦全敗。23場所維持した幕下から陥落し、翌九州では三段目西28枚目まで番付を下げた。
いかに、過去4回の当連載において「久々の三段目陥落」が反転攻勢への合図となってきたにせよ、今回の主人公は来る九州場所が終わる頃には33歳のベテラン。さすがに同一視はできないし、休場明けの7戦全敗が、体力の衰えのみならず、その心を折る動機となっても何ら不思議なことではなかっただろう。

物語は続く


だが、出羽の郷は強かった。気持ちが切れてもおかしくない窮状にあっても、その目は当然のように前を見据えていた。

「平成15年5月にヒザをケガしてから、ガップリになってはいけないと思い、立合いから一気に行く相撲を取るようになって変わりました」

『相撲』平成17年5月号 25頁

この年齢、この状況で、あくまで自分の取り口に目を向け、磨きをかけていかんとするのだから、その謙虚さ、実直さたるや並大抵ではない。

むろん、彼とて「三十歳を過ぎてから、師匠(出羽海親方・元関脇鷲羽山 筆者註:入門時の師匠である佐田の山の9代は理事長職に専念するため、平成8年に部屋付きの11代境川(元鷲羽山)と名跡を交換、10代出羽海が誕生していた)に五回くらい『辞めさせてください』と言いに行った」ほど去就を思い悩む時期があり、そのたびに師匠や周囲から励ましを受けてきた(このあたりの事情は『大相撲中継』平成17年夏場所展望号 81頁に詳しい)。
そうして永らえてきた土俵人生、この程度の怪我や不振でへこたれてなるものかという思いがあったのかもしれないし、或いは、もはやそうした考えすら無縁の超然とした心境でいることができたのか。

ともあれ、今回もまた三段目陥落の場所から快進撃の扉は開く。次項、当連載のフィナーレを飾る空前の昇進劇を、とくとご覧いただこう。

快進撃もゆっくりと


若い頃のようにうっちゃり、うっちゃられ・・・という相撲が頻繁に見られたわけではないにせよ、上体が起き、相手とがっぷりに組んでしまう相撲自体はなおも散見され、とうとう小戸龍戦での怪我につながった。
出羽の郷はここでもう一度原点に立ち返る。初めて『相撲』誌に取り口が掲載された14年半前(平成元年5月号、第1回参照)から変わらぬ持ち味、左差し速攻である。相手より少し早く出て先手を取り、左下手を引いて右はおっつけながらの攻め。仕留めきれぬと見れば食い下がって我慢し、じっくりと勝負をつけにかかる。元々そういう相撲を取れる人だったにせよ、改めて自分の良さを見つめ直し、磨きをかけることにより、これから先は「ここぞ」という一番で頼るべき武器となっていく。

本場所での歩みに話を戻すこととしよう。
屈辱の7戦全敗を経て挑んだ平成15年九州、4年ぶりに落ちた三段目(西28枚目)の土俵で5勝2敗と勝ち越した出羽の郷。ひと場所での幕下復帰を果たすと、平成16年、いよいよ進撃の一年がやってくる。
もっとも、初場所・東60枚目で4勝3敗、春場所・西50枚目で5勝2敗、夏場所・東33枚目で4勝3敗としたところまでは地力から見ても順当なところ。
続く名古屋は、西26枚目で初日から5連勝して5勝2敗。勝ち越しを決めたのは勝手知ったる春日野部屋の棟方(最高位幕下10)戦で、立合い勝り左四つ右上手で出るも攻めきれず長引いたが、顎を引いて右上手を離さず食い下がり、機を見ての寄りでケリをつけた。
秋場所、自己最高位近くの東16枚目まで戻すと、これまでは家賃の高さが目立った番付で奮戦。6番目の相撲、2場所前まで十両にいた栃不動(春日野)を左差し右前廻しを引いての速攻で一蹴(栃不動はこの一番で負傷)すると、13日目の四ツ車(伊勢ノ海、のち十両)戦は、あえて右四つを作りに行く立合い。先に引いた左上手を引き付け、相手には上手を与えずに寄り詰めると、最後は胸をひと突きして勝ち越した。
左差し得意とはいえ、こうして左で廻しを引けば右四つでも十分に力を出すことができた点は、付記しておきたい特徴の一つである。

2年ぶりの自己最高位更新となった(西12枚目)九州は、いよいよ年間全場所勝ち越し&7場所連続の勝ち越しをかける場所。
最初の一番は久々のうっちゃりで琉鵬(陸奥、のち幕内)を破り、中日には長身の魁将龍(友綱、最高位幕下6)をもろ差し速攻で退けて早くも3勝目。そこから連敗して迎えた13日目、相手は今も現役で頑張る芳東(玉ノ井、のち幕内、現三段目)である。
立合い左右と二本入った出羽の郷は、芳東が小手に振ろうとするところ、下手投げで返し気味に崩し、腰を密着させてのがぶり寄り。にじり出るように白房方向へ寄り切った。

年間全場所勝ち越しといえども、6勝以上は一度もなく、通算26勝16敗(勝率.615)。破竹の勢いと呼べるほどではないのもこの人らしさ、7場所中3場所は3勝3敗からの勝ち越しだったが、さて、この内1場所でも負け越していれば、その後の昇進は起こり得ただろうか。

戦後最スロー昇進成る


平成17年初場所、時代は朝青龍一強の真っ只中にあったが、前年九州で夢を繋いだ魁皇の綱取りも新年に持ち越され、大きな注目を集めていた。
34歳になった出羽の郷は東8枚目、初めて幕下一桁の番付に足を踏み入れた。さすがに家賃が高いか・・・そんな懸念を吹き飛ばすように序盤から白星を並べていく。
初日、十両経験者玉光国(片男波)を相手に、右で小さく張ってのもろ差し狙いから、巻き替えに乗じての寄りで好発進を切ると、中日の雷光(八角、のち十両)戦は、左を深く差して食い下がり、切り返し気味の動きで外から脅かすや否や、踏み込みながら足を内側に入れての下手投げで3勝目。さらに9日目、上林(八角、のち幕内大岩戸)を叩きこんで早々に勝ち越しを決めた。
残りの2番を落としたものの、番付運にも恵まれて春場所は西4枚目、とうとう関取昇進が視界に入る上位5枚目以内にのし上がってきたのである。

自己最高位の西幕下四枚目で臨んだ春場所。実は胸に秘めたる思いがあった。「誰にも言ってなかったけど、負け越したら辞めようかなとも思っていた。これがラストチャンスだと・・・」

『大相撲中継』平成17年夏場所展望号 81頁

昭和61年夏場所の初土俵から19年、場所数に換算すれば114。
過去に付いたことのある関取7人(両国、久島海、出羽の邦、常の山、舞の海、小城ノ花、小城錦)や同期生の17人はすでに全員が引退し、入門時の師匠である佐田の山も2年前に定年退職していた。
年齢を考えれば、本人がラストチャンスと考えるのも無理はない話。しかし、それは決して後ろ向きな感情ではない。「勝ち越しの続くこの勢いを生かさずにはおけない、ここまで来たからには必ず十両に上がる」出羽の郷の眼に心に負けん気な光が輝きだしていた。

勝負の春場所、前半黒星が先行した出羽の郷だが、4番目の龍皇(宮城野、のち幕内)戦をきわどく制して星を五分に戻したのが大きく、10日目に光龍を破って白星先行。そして、11日目に勝ち越しをかけて十両経験者琴冠佑(佐渡ヶ嶽)との一番に挑んだ。
琴冠佑といえば、奇しくも従来のスロー昇進記録保持者(所要89場所で昇進)。出羽の郷よりも5学年上、この時はもう39歳になっていたものの、元気に幕下上位の地位を保っていた。そんな相手と大一番で顔が合うのだから、数奇な縁としか言いようがない。
取組の内容を以下で詳細に記すこととしよう。

3-3琴冠佑(切り返し)出羽の郷4-2
立合い、相手より少し早く出るのが出羽の郷本来の狙いではあるが、琴冠佑のように殆ど体型の変わらない力士とやる場合には、張り差しもバリエーションの一つ。立合い小さく右で張ると、琴の顔が横を向いたところ、出羽狙い通りに左を差し込んで上体を起こし、左下手を引き付けながら低く右でおっつけんとすれば、琴が嫌がって右から振り回し正面から西へ回ろうとするところ、出羽落ち着いて体を寄せ、左足を琴の右足に外側から踏み込んでの切り返し、しかも右で前袋のあたりを持ち上げるようにしたので、琴はたまらずバランスを崩して仰天。出羽の郷、完勝で大きな勝ち越しを手にした。

晴れて勝ち越した出羽の郷。とはいえ、まだ西4枚目での4勝、昇進に向けて最後の一番を取れるかどうかというのがこの時点での見方であった。ところが、ここから十両ー幕下間の昇降事情は激しく動き出す。
長くなるのでその詳細は述べないが、結果として、出羽の郷は最後の相撲を取る千秋楽を前に、最低でも昇進6番手の位置を確保。それに対し、陥落相当の力士は7人を数え、千秋楽の結果によらず、昇進有力の立場となってしまったのだ(千代天山に敗れ、4勝3敗で場所を終える)。
むしろ、この日出羽海部屋の関心事となっていたのは、出羽の郷と同時新十両を目指した西3枚目・福興山の動向。関取の椅子をかけた十両春ノ山との入れ替え戦、惜しくも押し出しに敗れ、悲願を叶えられなかったことは、かえすがえす残念としか言いようがない。

ともあれ、出羽の郷の昇進は固まった。年齢は小野錦の32歳9ヶ月を越える34歳5ヶ月、所要場所数では琴冠佑の89場所を25場所も上回る114場所・・・言うまでもなく空前の超スロー記録である。
場所後の番付編成会議で正式に34歳の新十両誕生が発表されると、その快挙は角界の枠を飛び越え、一般ニュース等でも大きく報じられるなど一躍話題の人に。
専門誌も異色の新十両をクローズアップ。『相撲』誌は恒例の「新十両データバンク」のほかに見開き2頁の特集を組んで、出羽の郷の長きにわたる頑張りを称えつつ、今後のさらなる奮起にも期待を寄せている。

「関取に上がると周りの反応がまったく違いますね。前々から関ノ戸親方(元関脇福の花)に『1回でもいいから上がってみろ、全然違うから』と言われていたんですが、実感しました」

『相撲』平成17年5月号 110~111頁

場所後の4月19日には故郷の埼玉県三郷市役所を訪れ、晴れて故郷に錦を飾る。両親や入門のキッカケを作った中学時代の恩師も同席する中、市長からねぎらいの言葉を受けた出羽の郷の胸に、改めて関取の地位を掴んだ感慨が湧き上がっていたにちがいない。

多くの期待・応援・注目を受け、19年目の新十両、その15日間が幕を開ける。


晴れの新十両場所


異色の新十両誕生。『相撲』平成17年6月号は「出羽の郷が土俵に上がると観客は湧いたが、初日の土俵入りはガチガチに緊張し、土俵入り後は感激のあまり涙ぐんでいたほど」と晴れ舞台に立った「オールドルーキー」の様子を描写している。
連敗スタートの後、待望の初白星は3日目舞風(尾車)との一番。以下にその内容を取り上げておく。

1-2出羽の郷(上手投げ)舞風1-2
出羽の郷はオーソドックスな濃紺の締め込み。舞風はやや深めの緑系統といったところか。
立合い、出羽の郷は小さく右で張って右前廻し狙い。果たせず突き立てられるも慌てず下からあてがって対応し、左前ミツに手をかける。舞風これを嫌うと、出羽逆に右で突き上げて黒房から正面方向へ攻め立て、前に出ながら左差し右上手。舞風右を巻き替えんとして差し手争いとなり、出羽頭をつけるも、舞風腰を振って上手を切りながら右巻き替え。出羽定石通り前へ仕掛けながら上手を取り直すも、西寄り、攻めきれずに左巻き替えを試るところ、舞風逆襲に転じて黒房へ追い込むが、出羽巻き替えを果たせなかった左で首捻りを打ちながら右上手でうっちゃり気味に投げ飛ばし、見事相手の体を裏返した。
「相手と胸を合わせ、上体を起こしてうっちゃり腰の強さを生かす」
そういう取り口を戒め、早い相撲を心がけた姿勢が実っての大願成就とはいえ、これはこれで出羽の郷らしさ、代表作たる一番だと思う。
取組後はコメントを取ろうとする報道陣が殺到したため支度部屋では対応しきれず、急遽記者クラブに場所が移された。異例の注目度を物語るエピソードの一つだろう。

早めの白星で勢いづくかに思われた出羽の郷だが、やはり十両の壁は厚く、10日目幕下の千代白鵬に押し出されて負け越し。千秋楽、8番相撲の幕下一の谷を寄り切り、3勝12敗で夢のような15日間に区切りをつけた。

「15日間がこんなに長いとは思わなかった。十両はすべての面において違いました。負けた相撲でも自分の相撲が取れた相撲があったので、来場所につなげていきたい」

『相撲』平成17年6月号 49頁

記録的な新十両場所は終わった。それでもつかの間のフィーバーを終えた出羽の郷に悲壮感はない。
西9枚目で1点の負け越しに終わった翌場所時の本人談を聞いてみよう。

(前略)
やっと手にした個室から大部屋に移っても、
「何か逆にホッとしたよ。みんなのイビキが懐かしくて、静かな個室よりもゆっくり寝られるんだよねえ」

『相撲』平成17年8月号 74頁

何の関係もない話だが、出羽の郷が十両力士として初白星をあげた先述の舞風は、新幕下時に大部屋から個室(2人部屋)に移るも、イビキがうるさすぎため相方の富風(最高位十両)をノイローゼにしてしまい、すぐ大部屋に戻されたという経緯の持ち主(『相撲』平成9年10月号)。
そんな舞風のイビキも、ちゃんこの味が染み通した出羽の郷にかかればBGM同然だったのかどうか。こちらの対戦も見てみたかったものである。

その後の出羽の郷


前記の新十両翌場所負け越し、さらにその次の秋場所(西13枚目)も2勝5敗と崩れた出羽の郷、これが最後の15枚目以内在位場所となった。
20年秋には三段目に陥落した場所で1勝6敗。いよいよ衰えが覆いきれぬものとなり、次第に番付は下がっていく・・・
・・・と言いたいところなのだが、恐るべき鉄人ぶりは晩年の土俵人生においても健在であった。
平成22年9月、前場所の好成績(三段目西36枚目で6勝1敗)により、14場所ぶりとなる幕下復帰を果たしたのだ。このとき39歳11ヶ月。さらにはその地位を連続3場所保ち、40歳での幕下在位も記録。
同年5月場所限り、112年ぶりに関取不在となった名門部屋において、大ベテランの存在は力士としてもコーチ役としても不可欠なものとなっていた。

平成26年には鷲羽山の10代が定年を迎え、小城ノ花の11代にバトンタッチ。出羽の郷にとって18年ぶり2度目の師匠交代である。同年九州で出羽疾風が新十両、翌年春には言わずと知れた御嶽海が入門、夏場所には所要2場所で早々に新十両を決め、本格的に名門復活の狼煙はあがった。

そんな折、出羽の郷がついに現役引退の意思を固める。昭和61年の初土俵から30度目の夏場所、新十両昇進からは、はや10年が経っていた。
すでに44歳となっていた出羽の郷だが、23年初場所限り幕下を明け渡して以降も大きな衰えは見られず、最後まで三段目の地位を守り続けたのは立派の一言。
26年春には下位で6番勝って久々の上位復帰を果たすなどまだまだ強かったが、頼もしき後進の台頭が引き際を決心させる理由の一つになったという。

(前略) 
千秋楽、八菅山(21歳、芝田山)に寄り切られて1勝6敗。花道の奥で待っていた部屋の力士たちから花束を受け取り、記念写真に納まった。
この日の相撲を「自分の相撲が取れた。今日の相撲には悔いはないです」と振り返った。
 部屋からは、出羽疾風に続き、御嶽海が十両昇進を決め、「若い者が育っている。やめて、外から部屋を応援していきたいと思った。(思い出は)大阪場所で(新十両を)決めた時です。(現役時代は)いい人生でした。ほかの世界じゃできない経験もありましたから」と語った。
(後略)

『相撲』平成27年6月号 58頁

今年(令和4年)の名古屋場所、出羽の郷とも対戦歴を持つ千代栄(九重)が31歳11ヶ月、戦後4番目の高齢で新十両昇進を果たしたことにより、1位に輝く出羽の郷の記録が取り上げられる機会も多く見られた。
同じ出羽海部屋所属で、出羽の郷よりも5年後に入門、7年早く十両に上がり、9年早く引退した元幕内・金開山の高崎親方は、名古屋場所の大相撲中継で解説を務め、話題が高齢昇進に及んだ際、懐かしそうに兄弟子の存在を顧みながら、改めて34歳での新十両という偉業に思いを馳せているようだった。

ひたむきな努力と諦めない気持ちで相撲一筋に生き、「十両在位1場所」の栄光を勝ち得た好漢・出羽の郷秀之。その勇姿は、今も同時代を歩んだ関係者や好角家の眼に焼き付いている。


「十両在位1場所力士列伝」の連載は今回をもって終了いたします。全5回のご愛顧誠にありがとうございました。


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