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" プシコ ナウティカ "にみる「チイキ」

「「生」というのは、制度やシステムをはみ出している過剰なものであり、それゆえ不可避的に、制度やシステムを踏み越えてしまう局面がある。」

これを反転させると、(例えば学校や、会社、社会の不在化された)制度やシステムに、自覚無くいくらかでも自分自身を削り、凹ませ、制度やシステムからはみ出さないように、踏み越えないようにしている状態は「非生(=死)」であるとも言えてしまう。

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ただ、「生」に立脚するというのは、地域での精神医療サービスの民族誌を書くということにとどまるわけにはいかない。それだけでは、精神病院を一つの「社会」、一つの「全体」として書き出そうとしてきた精神病院の民族誌を、地域へと拡張したにすぎない。「生」というのは、制度やシステムをはみ出している過剰なものであり、それゆえ不可避的に、制度やシステムを踏み越えてしまう局面がある。

「生」に立脚する(プシコ ナウティカ/松嶋健著/世界思想社2014刊)

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写真は京都府警本部前の植え込みです。
制度やシステムに則って人間の手で植えられて刈り込まれたものです。
しかし、彼(植物)は人間が作った制度やシステムから食み出して跨ぎ越えて生長します。これが生きている「生」であると思われます。

加えて人間の手で植えられていない、制度やシステム側から観たときの「雑草」も同じように自然に芽吹き、食み出し跨ぎ越えて「石碑」(=制度システム)に関係なく生長してきます。

一方、伸びてきた彼らを庭師の職人さんが手入れをしますと、綺麗に整います。美しい景観となって私たちの目や心を癒やすこともあるでしょう。これが私たち人間の「真善美」=志事かもしれません。

それが過ぎると、環境(全体性)への配慮無く除草剤が使われたり、一企業の制度・システムの影響で公共の街路樹が勝手に伐採されるという事件も起こったりします。それも人間の行為です。

そして、私たち人間自身の「生」も、この社会(=全体の個は私自身)が作りだしてしまった制度・システムの中で、食み出したら刈られ、伸びたら抜かれ、邪魔になったら除草剤をまかれ、追い出され、排除され、無視され、「非生」的生き方を強いられる。

しかし、植え込みを心ある庭師が手入れをしたら、とても美しいものになる。過ぎることがない。時には自然と融合する。「そこには愛がある」のではないか。

それと、引用した著書「プシコ ナウティカ」の終章は「地域とは何か」で締めくくられています。「地域」とはなんでしょう。みんな言葉では簡単に「地域!地域!」と使っているけれども、「地域とは何か」という終章のための分厚い本があることも書き添えておきます。

京都府警の前を通ったときにふと考えました。

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