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リフレクティング・プロセス考

三角の対話の両面

教室から出させない。

加えて見えないバリアか何かが想定され教室には居ないことにされる。

そして居ないことになっている人の誹謗中傷をその人の前で皆でする。

ここだけの話。という感じで陰口をいう。

言われている方にとっては透明人間扱いされる「場」と「囲い」だ。聞かない自由は奪われ、縁(へり)で自分の陰口を聞かされる。

声を上げたとしても居ないことになっているので、聞かれることはなく届かず無視される。

無視をすることが遊びとなる。

こうして囲われた中で日々行われる加害的コミュニケーションによって非人間的な扱いを小学校から受け、仏道高校へ進学し、たまたま出遭った吹奏楽の顧問(故人)によって人間に戻して貰った。

年月が経ち、始めて三角の対話のもう一方の活用哲学を体験したとき阿頼耶識(あらやしき)の種子(しゅうじ)が発芽し、その構造がもつ両極端を自覚し合わせ持った。

一方があれば必ず他方があるので、この両面を並べておかないと、会話を通した非平和的な活動へと自覚なく変容する可能性が残される。加えて「よかれ」と思って行うとき、その時の加害性は計り知れないのかもしれない。

支援者に孕む病理性ともなりうる三角の対話の、両極の二面性を天からの視点で転識得智(てんじきとくち)し過去のトラウマが大円鏡智(だいえんきょうち)へと開かれゆくときに、真の「会話を通した平和活動」へと繋がるのかもしれない。(個も世界も今だ達せず)

三角の対話の縁(へり)での「純粋意識」・「純粋経験」としての「聞こえ」の効用は、紛争・戦争を終わらせることができるかもしれない。

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