明日の種をまく 024_20230927
敬称の魔力
私は職場で「先生」と呼ばれている。
本来はそんな資格をもっていないので、先生と呼ばれるのは違う気がするが、子どもたちは「教員」も「支援員」も変わらぬ存在で見ているため、「先生」と呼んでいるのだろうと思う。
結局、子どもたちの手前、呼び方を統一した方が混乱を招かなくてもよいということもあるのだろうか、教員たちも私たち支援員のことを先生と呼ぶ。もちろん支援員どうしも先生と呼ぶ。
私は特別この「先生」という呼び方にこだわりがあるわけではないのだが、1か月もしてこの呼び方に慣れてくると自分の中に多少の変化が生じていることに気がつく。
子どもたちがたまに「〇〇さん」と呼ぶことがある。
これがわざとなのか、たまたまなのかは私にもよく分からない。
私が昔、組織で仕事をしていた時、部長、課長などといった管理職の人に向かって、間違って〇〇さんと思わず声をかけてしまったことが何度かある。
これは私の脳が働いていない状態で思わず口から出てしまったもので、自分でも「え?なぜ?今、さんづけで呼んでしまった💦」と思うことがあった。
決して悪意などなかったのだ。
彼らも同じ「思わず」なのか「わざと」なのかは分からない。
でも、呼ばれた方が呼んだ本人よりも違和感を感じ「うん?その呼び方はもしかして私に敬意をはらっていないということだろうか?」などと気にしたりするのである。
そもそも「敬意」ってなによ。
敬意っていうか、〇〇さんには「下に見下された感」「横に並べられた感」があると言った方がしっくりくるのかもしれない。
それのどこがいけないの?と言われればそれまでなのだが、むしろ「先生」という敬称が「上に上に持ち上げる言葉」なのだなぁ、と思う。
そして自分もそういう風に自然と感じ取っていたのだなぁ、と自分のことをとても嫌な風に思ってしまったという話。
先生と呼ばれる職業は教員だけでなく、医者とか弁護士とか議員とかいろいろある。
何度も何度も「先生」と呼ばれているうちに、自分の身が上に上に伸びていき、人を下に下に見てしまっているかもしれない。「先生」という敬称にはそんな「魔力」が備わっているような気がした。
そもそも私は先生ではないのだから、〇〇さんで十分なのだ。
たまに生徒が先生ではなく〇〇さんと言ったことに対して、え?どうして?などと考える必要もないのだ。
心をフラットに保て、うぉんのすけ。
敬称なんかに惑わされるんじゃない。
会話のもっと本質的なところに集中しろ。
生徒が私のことをどう思おうが、自分からちゃんと寄り添って、支援員の立場で頑張るのだ。
決して驕らず。
今一度、身を引き締めよ。
タイトル画像は、仲良くさせていただいているnoterさん温水温(ぬくみず ゆたか)さんの作品です。
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