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人と会話することが怖くなってしまった

一時期、人と会話をすることが怖くなったことがあった。


「何言ってるか全然分からない」

「あなたと話しても通じないから無駄」


と、言われたことがきっかけだった。

そういう指摘を受けたことが初めてだったので、余計恐怖心を煽ったんだと思う。


そっか、私の話は何言ってるのかよく分からないものなのか……。


自分の思考に構音が追い付いていない自覚はあった。

どもる自分がいることも認識している。

回りくどい表現をするなあと、自分のことを眺めていた。

自分の頭の中を高速で飛び交う思考を音にする行為。会話そのものが、下手くそなのだ。


これまで会話してきた人は、「こいつの言ってること意味わかんねえな」と思いつつも、配慮してあえて口にしなかった。

と思ったら、ものすごくこれまでの人生が恥ずかしくなった。

社会人失格じゃないか!

いったいどれだけの人に迷惑かけてきたんだ。

「今日ネタないですか」「ねえよ」って笑って取材対応してくれたあの人やあの人も、無理に付き合ってくれていた?

もうあいつのインタビューなんて受けたくないって思われている?

いったいどれだけの人に迷惑をかけて、その人たちの貴重な時間を奪った?つらい。恥ずかしい。思い上がりも甚だしい。


マイナス思考が特技なので、眠れなくなった。

話をしたくなくなった。

会話することが怖くて仕方ない時期が続いた。


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会話ってどうやってうまくなるもんなの……

今は「あんなことあったね~はは」的な思い出になったけど、当時は心底悩んだ。悩むと体調が悪くなるのはもはや様式美と言っても過言ではない。

会話ってどうすればうまくなるんだ?

課題解決・再発防止のためにはまずは原因究明だ、みたいな事故調査委員会的な思考で、とにかく周囲の人に「私の会話で分かりにくいところはどこなのか、正直に教えてほしい」と聞きまくった。相当な圧だったと記憶している。

「正直に、正直に教えてほしい。そしてどういう工夫をすれば理解しやすくなると思うかアドバイスが欲しい」。とにかく怖いし自己嫌悪だし編集者がコミュニケーション放棄したら終わりだろで必死だった。相当な圧だったと記憶している。

本当にそのときはごめんなさい。


ヒアリング結果。

「いや、別に分からない部分はないけど…」「むしろ分かりやすい説明でありがたい」「そういうの思ったことはないな」

どうしてみんな本当のことを言ってくれない?

陰で悪口言うくらいなら本人に指摘してあげるのがやさしさだよ(と、本気で思っていた)(こういう思考が一番あかんやつ)


で、こんな意見をもらった。

「理解できないということはない。ただ、上野さんのつくる話の流れや型みたいのにうまく乗って話をしないと、別途認識のすり合わせが必要なことがある」


「そりゃお互い経験も考え方も違うのだから、認識すり合わせのためのやりとりは必要なフローでは?」

「まあそうなんですけど、それが苦手な人もいます」


経緯の負荷を減らすか、結果の精度を上げるか

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会話の内容じゃなくて、認識共有のためのコミュニケーションコスト観の違いがあったんだろうと思う。

同じ仕事をしているのだから視点は共有している。認識の一致にそんなに時間をかけて負担(無駄)を増やしたくはない。確かに。

一方、

コミュニケーションコストは必要経費。やりとりが複数に渡ってもそれで最終的な認識の一致が期待できるならいいんじゃないか、と考えたのが私。


これはもうどっちが正しくてどっちが間違っているという話にはなりえないのではないか。どっちの視点も必要だし、チームに属している人の特性次第で比重が変わる。

ただ、コミュニケーションコストが増えすぎると人の心に悪影響を与えることは忘れてはいけないなと思った。生き物には体力精神力それぞれの限界値というものがある。

その上で、これまでの経験や職種や考え方や価値観が違う人が認識の不一致を起こすのもまた当然の帰結かと。

なので今は、一度のコミュニケーションで全てをきっちり合わせようとせず、小出しコミュニケーション(壁にぶつかったら都度修正)を実証実験している。

このやり方も、苦手な人はいると思う。ていうかぶっちゃけ私が苦手。でも正解がないから模索するしかない。


相変わらず会話は下手くそですがどうかよろしくお願いします…

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