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Solarstone来日記念『Seven Citiesとその時代と背景』

Solarstoneをフューチャーしたパーティー『ONE AND ONLY』がいよいよこの週末に迫ってきた。コロナで沈んだ東京のパーティー・シーンも新しいクラブであるZERO TOKYOがオープン、エリック・プライズの初来日が実現しGWには大小様々なパーティーが開催されようやく動き始めた。そんなタイミングにONE AND ONLYのゲストとしてSolarstoneが来日する。Solarstoneといえばもちろん「Seven Cities」、この曲がリリースされたのが1999年。これは僕がMothershipというパーティーをはじめた年でもある。あれから24年!いまでこそクラシックな名曲として知られているが当時の日本ではまだまだ一部の音楽好きにしか知られていなかった。

ONE AND ONLY

ONE AND ONLY 8th Anniversary feat. Solarstone
-Trance & Progressive Classics Night-
26th MAY 2023
CLUB SEATA 吉祥寺

-Entrance Fee-
ADVANCE : 3000 yen + 1 drink Required

この原稿では「Seven Cities」が生まれた背景とその後のトランスのブレイクについて個人的な思い出を交えながら書いてみようと思う。1999年といえばインターネットが爆発的に普及する直前、SNSが生まれるずいぶん前のことになる。パーティーの情報もフライヤーが中心、音源はアナログ・レコードの時代だった。90年代の東京では、そもそもテクノやハウス、トランスのパーティー自体がリアルにアンダーグラウンドなものだった。

いま僕らが耳にするダンス・ビートのルーツはディスコやファンクをベースに80年代アメリカのシカゴやデトロイトで生まれたハウスやテクノにある。それが1988年にイギリスでアシッド・ハウスとして大ブームを巻き起こし、そこから発展した音楽が30年以上たった現在まで連なっている。この時代のイギリスで一体なにが起きていたのかを知りたい人は、マシュー・コリン 著 坂本麻里子 訳『レイヴ・カルチャー エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語』を読むことをお勧めする。以前僕がこの本について書いた文章も上げておこう。

80年代末、イギリスでは長く暗いサッチャー政権が終わりを迎える。同時に80年代に10代から20代を過ごした世代が一気になにかから解放されるように自由を謳歌しはじめた。それは当時の音楽によく表れている。まるで革命でも起きたかのようにポジティブで挑戦的な曲が溢れ、誰もが本当の自分を取り戻したかのようだった。Move Any Mountain!山だって動かせる、これはシェイメンというユニットの1991年のヒット曲のフレーズだが、この曲で踊る僕自身が実際にそういう気持ちだった。イギリスでアシッド・ハウスが大ブームになるとそれはすぐにヨーロッパへと飛び火した。イギリスではすぐに国産のダンス・ミュージックが作られるようになり空前のブームがやってくる。レイヴやクラブでヒットした曲はポップ・チャートにランクインすることも珍しくなく、ポップソングには常にダンス・リミックスが作られた。もちろんロックバンドもアシッド・ハウスの影響を受け、ストーン・ローゼズはパーティーの高揚感をサウンドに取り込むことで時代のヒーローになり、プライマル・スクリームはハウスのビートで名曲「Loaded」をヒットさせ、ハッピー・マンデイズはパーティー・ライフの現実を最高のポエトリーにした。

1989年から1991年の間、僕自身もイギリスで起きていたアシッド・ハウスとエクスタシーによる想像以上の狂乱をロックを通して感じ取っていた、『なにかとんでもないことが起きているに違いない』と。レコード漁る毎日の中でよく目にしたのがポール・オークンフォールド、アンドリュー・ウエザーオール、テリー・ファーレイの3人だった。あとから知ることだが、この3人は80年代にファンクやレア・グルーヴ中心のDJをやっていた仲間でもあり、オーキーはヒップホップをその黎明期にイギリスに紹介していたし、テリーはロンドンのソウル・ボーイ、アンディーは当時から実験的なサウンドの探求者だった。アシッド・ハウスのブレイク以降はそれぞれがパーティーを立ち上げる。そこにはピート・トンやジ・オーブのアレックス・パターソン、KLFのジミー・コーティーなどその後のUKダンス・シーンをリードする顔ぶれがほぼ揃っていたと言ってもいいだろう。

1988年の熱狂をまずロックで感じていた僕が、イギリスとは順序が逆ではあったけどダンス・ミュージックに引き込まれたのは1994年、アンダーワールドの初来日あたりからだった。それまで聴いていた110前後のBPMではなく、BPM130の四つ打ちとドライブするベースライン、それまで聴いてきたロックのリミックスともチャートに入っているようなハウスとも違うシリアスなサウンド、パーティーに集う、昼間はなにをしているかまったく想像できないワイルドな人達、もちろんパーティー自体の異様な熱気。僕は気がつくと翌年には完全にパーティー・フリークになっていた。

1995年は日本のレイヴの黎明期だった。1993年あたりから静かに始まったパーティー・シーンは試行錯誤しながらそれまでのクラブ・シーンでは括れない新しいものになり始めていた。当時の野外レイヴはほぼゴア・トランス、そこを入口に僕はシーンの中に飛び込んでいく。90年代に入るとイギリスのダンス・シーンはどんどん多様化していった。ヨーロッパ産の進化したテクノやハウスが大量にリリースされ、レイヴ・シーンは巨大化、その中からプロディジーのようなスターが生まれる。一方でマッシブ・アタックのようにヒップホップの手法を応用しながら全く新しいサウンドを生み出し、オーブのようにサイケデリック・サウンドとダンス・ビートを融合させるアクトも登場する。トランスがシーンに出現するのもその時期だ。シリアスでメロディックなシンセとドライブするベースラインを持つパワフルなサウンドは徐々に広まり、サイケデリック・トランスの主要レーベルは94年から95年にスタートしている。当時のトランスをリードしたのがオーキーだった。

レイヴにハマると次は音源を探し始める、最初は右も左もわからなかった僕も毎週パーティーに行っていれば徐々になにが起こっているのかが見えてくる。DJやレーベル、トラックやアーティストがわかり始める。とにかく毎週末、ひたすらに踊りながら自分に向き合い、思考をドライブさせることがなにより新鮮だった。パーティー体験は僕に多くのことを教えてくれた。それまで自分が信じていた価値観が単なる思い込みだったことに気が付きはじめる。自分の体験と感覚を通して世界を見ることがどれほど刺激的だったか、それは音楽についても言えた。踊ることでもう一度自分を発見することになり、僕はパーティーを通して自分が聴いてきた音楽を更新する。そのあたりからパーティーやレイヴで流れる音楽もはっきりとしたイメージとして伝わりはじめた。そこで僕は91年以来もう一度オーキーに出会うことになる。

ちょうどPerfecto Fluoroがスタートした直後、ジュノー・リアクターやハルシノジェンがパーティーを席巻していた時期だ。オーキーにとって80年代後半にイビサで体験したことがキャリアのスタートになり、アシッド・ハウスの熱が彼をトップDJに押し上げた。同時にイギリスでは多くの若者やパーティー・フリークがレイヴ中心の自由な生活を送りはじめる。そこからニューエイジ・トラベラーが生まれ、旧世代のヒッピー・カルチャーも巻き込みながら新しいムーブメントとして世界に広がりはじめていた。この辺りの状況については前述の『レイヴ・カルチャー エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語』に詳しく述べられているので興味のある方はぜひ読んでほしい。93年ごろにはオーキーやダニー・ランプリングなどのバレアリック・スタイルの先駆的なDJはイビサに変わる聖地を探し始める、そこで彼らが辿り着いたのがインドのゴアだった。ゴアでは80年代から続く野外パーティーがひとつのカルチャーとして根付いていた。当時からニューオーダーの12インチのビート部分を編集したテープやサイケデリック・ロックをミックスしたものをDJがプレイしていた。それを新しい感性を持った新世代のトラベラーたちが再発見したことでアシッド・ハウスやテクノが持ち込まれ、パーティーがアップデートされていた、90年代前半のゴアこそが第二のイビサだった。
オーキーがゴアで受け取ったものはよりシリアスでエモーショナルな展開と壮大なメロディー、そしてドライブするリズムを持ったトランスとして徐々に完成していった。当時ピート・トンがナビゲイターを務めるBBC Radio 1の週末の人気番組Essential Mixで放送されたオーキーのDJ MIXがこちら。このミックスが国営放送の番組で流れるなんて本当にイギリスはいい国だと思う。これ以降一気にトランスというカテゴリーは大きな進化を始める。

BBC Radio 1 Essencial Mix Paul Oakenfold GOA Mix 1994年12月8日

1996年、日本初の本格的野外ダンス・フェスRAINBOW 2000が開催されるころには日本のシーンもある程度カテゴリーに分かれはじめ、週末のクラブも活況を呈してくる。僕自身も手当たり次第にダンス12インチを漁ることでようやく自分の求めているサウンドが見えてきた。この原稿の主役である「Seven Cities」とならび僕の人生にとってとても大きな意味を持つトラックがあと2曲ある。ひとつは翌年にリリースとなるBTの「Flaming June」、もう一つがシケインの「Off Shore」だ。

「Off Shore」と「Flaming June」はハードなゴア・トランスに息苦しさを感じていた僕にとって大きな転換点だった。トランスというサウンドが持つ新しい可能性がそこにあった。「Off Shore」がリリースされた96年当時、東京ではまだまだヨーロッパのトランスを手に入れることは難しかった。Hooj ChoonsもXtravaganza RecordingsもADDITIVEもまだ本格的にブレイクする直前で情報がなく、輸入盤店でもそれほど注目される存在ではなかった。その状況が一変するのが翌97年のことだ。97年の春、ポール・オークンフォールドがPerfectoレーベルのプロモーションのために来日した。そのプロジェクトのプロモーションを手伝うことになった僕はオーキーと会う、そこで彼から渡されたのが「Flaming June」のシングルとPerfecto Fluoroの12インチ数タイトル、それと彼のミックスCD『Perfecto Fluoro』だった。このアルバムとGlobal Undergroundの『Oslo』と『New York』こそが僕が求めていたトランスだった。97年の出来事をもうひとつ。97年の夏に僕は仕事でロンドンへ行った。その時の行ったパーティーが凄かったのだけれど、それについてはまた別の機会で触れたいと思う。ロンドンで僕が見つけたのはレコードだった。何件ものショップを回って僕が見たのはPerfectoだけでなく初期Xtravaganzaのシケイン、ディスコ・シチズンの12インチ、初期のADDITIVEやソルト・タンクやスペース・ブラザーズなど日本では見たこともないトラックの数々、ある店では『Paul Oakenfold Played』というコーナーまであった。大量のレコードを買い込んみ日本に帰ってきた。その年の12月、僕はオーキーとマン・ウィズ・ノー・ネームを招聘してパーティーを企画した。

この97年から2000年までが僕にとってのトランスの黄金期だった。98年にはじめてイビサに行き、そこではじめて聴いたバイナリー・ファイナリーの「1998 Paul van Dyk Remix」、ナリン・アンド・ケインの「Beach Ball」、チャクラの「Home」、スリー・ドライブスの「Greece 2000」、あげればキリがない。このイビサでの体験がパーティー『Mothership』をスタートさせる原動力となった。イビサで感じた高揚感を受け止めてくれるパーティーは当時の東京にはなかった、それなら自分で始めようと思ったのだ。1999年はトランス・シーンとしてもひとつの大きなピークだった。グラストンバレー・フェスではオーキーがDJとしてはじめてアザー・ステージのヘッドライナーとして出演、この年は数多くのレーベルが活発にリリース、名曲の数々が世に出た。なかでもシーンをリードしたのがHooj Choonsだった。そのHoojからリリースされたのがSolarstoneの「Seven Cities」だった。

「Seven Cities」はシングルとして3度リリースされトータルでは50万枚を売り切っている。収録されたコンピレーションなどを含めたら軽く数百万のメガヒットとなった。「Seven Cities」はそれまでのトラックとは明らかに違っていた、90年代を通して数々の名曲が試行錯誤しながらダンスとエモーションをさまざまなテイストで表現してきた中でこのトラックはあきらかにある到達点を表現していた。それはすべてのパーティーが目指した『約束の地』、そうプロミストランドだった。長い道のりの果てにすべての葛藤もストラグルもない場所、ただ太陽に照らされた広い空と海、そこはすべてが満たされた希望の場所。97年から2000年までのクラブ・シーンの熱狂の終着点でもあった。多幸感という言葉だけでは表すことのできない思い。これは95年からシーンを追い続けたものにとって、数々のパーティーやDJが積み上げてきた流れの上に生まれた瞬間だった。同じようにパーティーを追っかけてきた人ならわかってもらえるだろうか?

僕自身も何度「Seven Cities」をプレイしたかわからない、その度に特別な気持ちになっていた。特に忘れることができないのが2000年の8月に茅ヶ崎のビーチでやったバレアリック・サンライズだ。夜明け前の3時過ぎからブースに立ち、星空の下で夜明けが近づき、濃紺から紫に移り変わる水平線を見ながら日の出の瞬間に向けて気持ちをゆっくりと解放するようにトラックを繋げる。そして徐々に夜明けに向けて滑り出すし、サンライズの瞬間を完璧なトラックで迎え、夏の日差しが青い空を覆う頃にプレイした「Seven Cities」。その瞬間、海と空とオーディエンスが一体になったあの場所は僕にとってまさに約束の地だった。

そしてほどなく僕は気が付く、約束の地にたどり着くことはできても止まることはできないのだと。どんなに完璧な瞬間でも同じものを繰り返すことはできない、だからこそ強く心に刻まれる。あの奇跡の一夜はもう二度と見ることはできない。そう、パーティーはそのタイミング、その瞬間を生きた人たちによってつくられそして消えてゆく。2000年以降、トランスの最前線はオークンフォールドからティエスト、ポール・ヴァン・ダイク、アーミンに受け継がれ、よりディープなディレクションはサシャとジョン・ディグウィードを経由してダニー・テナグリアとディープ・ディッシュへとバトンが渡される。現在のフロントラインはエリック・プライズだろう。

今週末、「Seven Cities」の作者Solarstoneが来日する、彼は数々の名曲をプレイしてくれるはずだ。ただ懐かしむためだけでなく、それぞれが体験してきた最高の瞬間を思い出すために集まってほしい。なぜならどんなに最高の瞬間でも人は忘れてしまうからだ、大切なことほど思い出すための工夫が必要なのだ。どれほど自分が音楽に熱狂していたか、どんな気持ちでいたかをもう一度思い出してほしい。みなさん、フロアで会いましょう!

ONE AND ONLY 8th Anniversary feat. Solarstone
-Trance & Progressive Classics Night-

-Entrance Fee-
ADVANCE : 3000 yen + 1 drink Required
https://t.livepocket.jp/e/77nba

DAY : 4000 yen + 1 drink Required
-ご入場の際に1ドリンクのチケット(600円)の購入をお願いしております-Under 25 : 2500 yen + 1 Drink service
DAY Only and please show your ID
-20歳以上、25歳以下の方は当日券のみ2500円 (1ドリンク付)でご入場頂けます。ご入場の際に身分証明書での年齢確認がございます。
※20歳未満のご入場をお断りしております。

-Pure Trance, Trance & Progressive Classics Floor-
Special Guest : Solarstone [UK / Pure Trance]
 
DJs
YODA [HORIZON]
DJ Tokunaga [CONURES / One and Only]
O-ZI & DJ NECO [Landscape / One and Only]
Norio SP [Ligaya / Anahera]
AJ [Sacred Technology / Ligaya / COT]
VJs
Katsumaki
Snafkin (映像犯 関東支部)
VJ Akiko

-00's Trance & Progressive Classics Floor-
Guest DJ
Erich Logan
Codeswitch [Ascent Recordings]
DJs
Les Tontons Tranceurs [COT]
Blue-S [One and Only / Analog Journey]
TATEGOTO AZARASHI [Magnificent Trance / Vangurd]
Lavee [Mystic / SMOOTH]

Photographer
Takashi Konnai
PhotobyU (映像犯 関東支部)

FOOD
LEVECHINA CURRY


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