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この世の正義


 この時間の電車で座席に座れたのは、なかなかラッキーだ。通常の平日では、満員でもないけど吊革は半分以上使用されていて、どこかしらの席が空けば誰かしらが即座に確保してしまう、そのぐらいの混雑具合だ。もしこの帰りがけの電車で座れるのであれば、それは目の前で座る人が運よく立ち上がって電車を降りたりした場合のみだ。それが今日起こった。
 立ち仕事をしていると、最早座る時間そのものを恋しく感じてしまう。いつもであれば、朝家を出て駅まで歩いて満員電車に乗って駅を降りて学校まで歩いて職員室に着いて、そこでやっと座る。しかしそれも束の間で、その後は教室に行って朝のホームルームをして職員室と教室を何度も往復して、昼休みになって初めてマトモに座っていられる。そして午後の授業が始まってまた何度か往復して帰りのホームルームをやって部活の時間はグラウンドに出て。そのあとは翌日の授業の準備をして、その時間も一応座っていられる。学校を出たらまた駅まで歩いて電車に乗って駅に着いたら家まで歩く。こうして一日を終えて帰宅したら、やっと『立ち』からの解放だ。ざっと計算すると、毎日十二時間以上立ちっぱなしかもしれない。そんな日々を過ごしていれば、こうして向こう三〇分近く座っていられるだけでもとてもありがたく感じる。先ほどまで自分の目の前に座っていた人はもしかしたら、ささやかな幸せを届けにきてくれた神様からの遣いなのかもしれない。おそらく、私の真面目な生き方を労ってくれたのだろう。私は感謝しながら寝た。いや、寝ようとした。しかし、寝られなかった。
 大学生らしき男女四人が、左斜め前の優先席付近で、大声で話し込んでいた。
「うわ、まだ七時台じゃん」
「そうねー、五時から酒飲んでるからねー」
「明日ってみんな講義あんの?」
「私ないよー」
「ウチもない」
「俺は朝からあるんだけど」
「けど?」
「サボるに決まってるでしょ!」
「ウェーイ! 出た、クズのノリ! 家で朝まで飲んで騒ごうぜ!」
 酔っ払った彼らの声は、電車の音をかき消すほどにうるさかった。周囲の乗客のほとんどが彼らに苛立ちの視線を向けていた。立って読書をしていたおじさんは本と彼らを交互に見ており、明らかに集中できていなかった。座ってノートパソコンで仕事をしていた会社員はキーボードを叩く手が止まり、そして閉じてしまった。立って教科書を読んでいた学生は、イヤホンを取り出して音楽を聴き始めた。座って寝ていたおばさんは、目を覚ましてしまった。おそらくこの車両にいる全ての老若男女の耳に、彼ら四人の声が響いている。
 ただ、これぐらいの事はよくある。金曜日に帰りが遅くなった夜は、こういう集団をいつも見かける。その度に腹が立っていてもキリがない。私は出来る限り声を気にしないようにしながら、目を閉じた。おそらく他の皆も同じように考えていたのだろう、程なくして誰も彼らに見向きしなくなった。
 しかしそれでも、彼らは再び視線を集めた。一人の男が銀色の缶を取り出したのだ。上部に取り付けられたプルタブを引いた。「カシュ」と二酸化炭素の溢れ出る音が微かに聞こえた。他の三人はそれを見て大笑いしていた。
「いつの間にそれ買ったんだよ」
「居酒屋出てコンビニで水買ってたじゃん。その時にだよ」
「後で飲むんだから、ちょっとぐらい我慢しろよー」
 さらに一人の女が同じ缶を取り出した。
「実は、私も買ってましたぁ」
 女も同じように中身を飲みだした。その時、電車が大きく揺れた。缶の中身がこぼれてしまい、周囲にビールの匂いが漂い始めた。それを四人の中の誰かが拭き取る訳でもなく、咎める訳でもなく、またしても笑っているだけだった。
 これぐらいの事は一度もない。こんなにうるさい集団は初めて見た。さすがに、腹が立って仕方がない。おそらく他の皆も同じように考えていたのだろう、不愉快を通り越して怒りの表情すら見せる人もいた。
 誰かあの若者達を注意してほしい、誰かあの若者達を止めてほしい、誰か快適な車内を取り戻してほしい。私はその誰かが現れるのを願い続けた。しかしその願いは一向に叶う気配が無かった。おそらく、これも皆が同じように考えたのだろう、「誰かがなんとかしてくれる」と。そこでふと私は、自分の職業が何なのかを思い出した。私は教師だ。これからの社会を支える若人達を導く責務がある。ここで立ち上がらなければ私は教師ではない。
 座席を立って、大学生らしき男女四人のところまで近づいた。
「君たち」
 彼らは私を見た。
「なんですか?」
 私はなるべく私らしく、大人らしく、そして教師らしい言葉を絞り出した。
「話し声が大きいよ。電車はみんなで使うものだから、君たちだけで楽しくおしゃべりして他の皆に迷惑をかけないでくれるかな」
「はぁ、そうですか。すいません」 
 彼らは心の底から反省しているかどうかは怪しかったのだが、とりあえず静かにしてくれるようになった。
 席に戻ろうと振り返ると、知らない女性と目が会った。その人は、私に向かって会釈をした。おこがましい勘違いかもしれないが、彼女は私の勇気ある行動を褒め称え、そして感謝してくれたのかもしれない。さて、電車内も静かになったので、しばらく座ってゆっくり仮眠を取ろう。
 先ほどまで確保していた席を見ると、知らないおじさんがそこに座っていた。それから私は家に帰るまでの間、足の裏以外を床につけることは無かった。

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