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何故そんなことをするんだってば。

正義感って時に「ウザイ」もので、真実を告発することは「残酷」なのかも知れない。

それでも自分の信念は曲げたくない。

まっとうじゃないもの、臭いモノには蓋をしろ精神はなんか嫌だ。なんかってことは、つまり根底から私には合ってないってこと。

無理をしたくないんだ。

私は大変生き難い性質だなと自分でも痛いほど身に染みていて、理解はしているつもりなんだけど、どうしても沸々と腸が煮え返るような出来事には目を背けられない。落ちているゴミやキーホルダーさえ拾って、これアナタのですかって追いかけることもある。現実でだ。そりゃぁ生き辛いだろうなって書いてて自分でも思う。相手は要らないから路上に捨てた。でもそれは公共の道を汚す行為である。こう言ったことを「良くないです」ではなくて、「これ落としましたか?」と聞いている時点で疑ってかかっているのだろうか。随分と人を舐めた態度なのだろうか。しかし、汚すことはどうしたら辞めさせられるの?要らなくなったからって自分のフィールドではないからって、汚していい筈ないし、自分の信じるものは守っていきたい。クリーンで在りたい。それだけなんだけれど。

別に正義マンになりたいわけではないのだけど、この様にじゃあお前はどうなのよ?と問われる議題は難しい。何故なら私もどこかを汚しているかもしれない。それは物理的な場所じゃなくて、人の心かもしれないし、身近な人が「あいつはああいう所あるから」と言わないだけで、結局私だって性質が面倒くさいことには変わりない。

しかしながら。
意見は違っていていいのだ…その人の一番大切なものを尊重して、あとは「じゃあ、それでは。」これでいいのだ。
私の場合は公共の場を悪い空気で満たして欲しくないからチラシの裏なりゴミはせめてゴミ箱へ、なんて思っているのだが。
基準が人それぞれだから押し付けたくはないよね。


なんて下書きがあったので。
完結させてみたんだけども、なんだか「主張する」ってその意見に対して俺私はこっち派と好みがあるから難しい。いや、それでいいんだ。みんな違ってみんないいんだもの。
そしてね、数多くサポーターがいたとしても、果たしてそれは真のサポーターなのか?という所は常に疑ってかかって生きていたい。私は信用している人が少ないし、妄言みたいだけれど所謂直感型だから「合わない」が肌でわかるのだ。別に喧嘩したいわけじゃないのよ。全部を信じるのは危ないよねって警告。

ここから先は心のパーソナルスペースなので、あとは汲み取ってね。っていう事とか。
この人随分高圧的だな、とか。
この方は本当にやさしい空気を纏っているな(そんな人は大体他者に興味ない)とかがね。なんか、文で人の成りがわかるって面白いなと思った昨今だったんですよ。綺麗事って、それもわかっちゃうからさ。

#日記 #徒然 #memo #メモ #意見

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