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【東欧歴史旅】独露に挟まれた国々の激動

北欧を10日間旅した後、バルト三国及びポーランドを巡りました。
これらの4か国に対し、旅行前はほとんどなんの印象もありませんでした。
せっかく旅をするなら、各国の歴史背景も学びたいと、情報収集及び現地の博物館を巡る内に、目を背けたくなるような壮絶な歴史があることを知りました。
主には、ロシアによる支配とナチスドイツによるユダヤ人迫害の歴史。
ホロコーストの舞台はドイツがメインかと勘違いしていましたが、有名なアウシュビッツ収容所はポーランドのクラクフにあります。
アンネの家はオランダにあることを考えると、ユダヤ人迫害はヨーロッパ全土で繰り広げられていたことが分かります。

基礎情報

外務省の各国記載事項を中心に、基礎情報をまとめました。
ポーランドが飛び抜けて大きいですね。
この大国が一時隣国に分割され、歴史上存在しない期間があったとは驚きました。

単位は参照元に準じました

複雑に絡み合う歴史を簡単に

エストニアとラトビアは、13世紀頃よりハンザ同盟によって栄え、一時はドイツやスウェーデンにより支配された時期もあります。

一方リトアニアは、リトアニア公国として歴史に名を刻み、13世紀には現在のベラルーシ、ウクライナ等を含む大国でした。
また、14世紀末からはポーランドと同君国家となり、リトアニア=ポーランド王国時代を迎えます。

ポーランドは15~17世紀には東欧の大国でしたが、18世紀末には3度にわたり、ロシア、プロイセン、オーストリアの三国に分割され、第一次大戦終了までの123年間世界地図から姿を消します。
同化しているリトアニアもポーランドと運命を共にします。

18世紀、スウェーデンとロシアの北方戦争でロシアが勝利し、エストニアはロシア領となります。ラトビアはロシア及びポーランド領となりますが、上記のポーランド分割により全土がロシア領となります。

1917年のロシア帝国滅亡により、1918年には4か国とも、ロシアからの独立を宣言します。
短い独立時代を経て、1939年9月ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まります。
1940年バルト三国はソ連に併合され、ポーランドはドイツとソ連に分割占領された後、終戦時に形式上独立しますが、長年ソ連の影響下に置かれることとなります。

第二次大戦後の独立時期が近いことから、バルト三国としてまとめられることが一般的になっていますが、長い軸で見ると、当然それぞれ歩んできた道が違うことが分かります。

地理的条件が近いポーランドとも一部歴史を共有していること、またラトビア、リトアニア、ポーランドではユダヤ人居住区であるゲットーや収容所が設けられており、被害が大きかったことから、この4か国を巡って感じたことをひとつの記事にしてみることにしました。
以下、国ごとの訪問先と所感等です。
あくまでも個人の私見を含んだ旅行記であることをご理解いただけますと幸いです。

エストニア タリン

タリンは旧市街の美しさが有名で、長年行ってみたい街のひとつでした。
(余談ですが、バルト三国の首都であるタリン、リガ、ヴィリニュスの旧市街はすべて世界遺産に登録されています。)

パットクリ展望台から見た旧市街
ラエコヤ広場

エストニアは近年ではSkypeや電子政府に代表される、IT先進国としても名を馳せています。

フィンランドのヘルシンキから船で約2時間という好立地のため、フィンランド旅行とセットでタリンに訪れるという旅行者の方も多いのではないでしょうか。
また、フィンランドに比べて酒税が低いことから、大量のフィンランド人がお酒を買いにやってくるそう。
エストニアで売られたお酒の約3割がフィンランド人によって購入されているとかいないとか。

そんな背景もあり、観光及び情報産業によって経済的にうまくいっているように見えました。(というのはあくまでイメージだったようで、外務省の情報によると主要産業は製造業、卸売・小売、不動産、運輸、建設等だそうです)
よって私が見たタリンでは、あまり暗い面を目にすることはなかったのですが、驚いたのはこの光景を見た時です。

ロシア大使館前に、ウクライナ侵略戦争反対のメッセージがたくさん掲げられています。
撤去されずにそのまま置かれているのが意外だったのと、同じくロシアに支配された歴史のある国としての強い抵抗の意志を感じました。

一方で、ソ連支配時代、タリンにサイバネティックス(人工頭脳学)研究所があり、そのノウハウやITに強い人材が独立後もエストニアに残っていたということや、侵略の歴史があるからこそいかに国家の情報を守り抜くかということに全力で取り組んで実現したという点に、過去の経験をバネに、また使えるものは使って、未来を築いていく力強さとしたたかさを感じました。

ラトビア リガ

タリンからリガに移動すると、街全体の暗さに驚きました。

旧市街の様子

滞在した2日間とも天気が悪くてどんよりしていたという影響ももちろんあるとは思うのですが、消えない共産圏のにおいというか。
プラハを訪れたときに感じたものとは比べ物にならない、特有の暗さを感じました。

利用した施設の電気もオートじゃなくて手動のものが増え、お店のトイレなど使ったら消すという徹底ぶりで(当たり前のことですが)、トイレにはゴミ箱があったのでトイレットペーパーは流さないほうがいいのかな?というところから、下水道もあまり発達していないような、先入観からくる勝手な印象かもしれませんが、これまで訪れてきた国よりは貧しいような気がしました。

飲食店でのサービスも少なめで、ロシア風。
お土産屋さんも少なくて、商売のにおいがあまりしませんでした。
北欧からきた私たちにとっては、何もかもが安く感じられ、レストランではお腹いっぱい食事をしました。

ホステルで会ったウィーンからきたという方には、ここの物価どう思う?と聞かれ、わてら北欧から来たからめちゃ安いと思う、、、と答えましたが、ベラルーシのミンスクはもっと安かったよ!とおっしゃってました。余談でした。

Riga Ghetto and Latvian Holocaust Museum

街の歴史を学ぼうと、ゲットー博物館に向かいました。
この後リトアニアやポーランドでユダヤ人や戦争に関する博物館にいくつか行きましたが、そのほとんどが国によって運営されているのに対して、この博物館は民間団体により運営されており、入館料は無料で寄付1人5ユーロを強めに要求されるといった具合でした。
この博物館が民間団体によって運営されているという事実が、ラトビアという国の歴史認識に起因するものなのかどうか、疑問に思います。

博物館は、小さなエリアで屋内外の展示により構成されています。
有刺鉄線やユダヤ人収容所への移送に使われた鉄道貨車等が残されており、物々しい雰囲気です。

このリガのゲットーで、ヨーロッパ各国からやってきたユダヤ人が暮らしていたことを知り、いかにその被害の範囲が広かったのか知りました。
個人の日記や写真がたくさん展示されていて、そこに一人一人の人生があったこと、小さな希望が失われずにいたことが窺い知れます。

街中のことに話を戻すと、週末が独立記念日であったためか、至る所に国旗が掲揚されているのを見かけました。
胸元に国旗のリボンを着けている方も少なくなかったです。
プロジェクションマッピングも見れました。

独立国家であることに対する誇りを感じました。

リトアニア ヴィリニュス

リトアニアに入るとまた雰囲気が変わりました。
高い建物が増え、身なりの美しい方が増えたような。
バスを降りてすぐ何人か見かけたベレー帽をかぶったご婦人が素敵でした。
これも先入観かもしれませんが、13〜14世紀に繁栄したリトアニア大公国時代からの国としての誇りが感じられるような気がしました。

ゲディミナス塔

15世紀に建てられた城の一部
塔の上から
右手に見えるのはリトアニア大公宮

新しい街に行くと、まず高いところに行けば街の様子がよく見えます。
また、この塔は内部が博物館になっており、リトアニアの歴史を学ぶことができます。
入場料は6ユーロでした。

内部はいくつかのフロアに分かれており、時代ごとの移り変わりが確認できます。

特筆すべきは、「バルトの道」として知られている、バルト三国の「人間の鎖」運動の展示についてです。
1989年8月23日に三国の首都間を約200万人の民衆が手を繋いで600kmの距離を結び、ソ連からの独立を訴えました。
翌年に三国とも独立を回復しました。

抗議運動は民主主義を民主主義たらしめる強力な手法と感じます。
一市民として自分がどれだけ意思を持って主張し、参画できているか?権利を無駄にしていないか?省みる機会となりました。

ソ連支配時代の暗い歴史に関しては、各都市にKGB博物館なるものがあったように思いますが、時間の都合で伺えませんでした。
ここからはユダヤ人の歴史を中心に学んでいきました。

バルトの道をつくる人間の鎖 当時の写真

ビリニュス ゲットー

美しいビリニュスの街並みの中にも、ゲットー跡の記録が残されています。

リトアニア カウナス

カウナスもビリニュスに引き続き美しい街でした。
こちらには命のビザで知られる、杉原千畝記念館があります。
入場料は5ユーロでした。

閑静な住宅街にあります

唐沢寿明氏が演じた映画を観ると、その偉業が分かりやすくまとめられています。

日本領事館領事代理としてカウナス(当時のリトアニアの首都)に赴任していた杉原氏は、ヨーロッパ全土におけるユダヤ人迫害から逃れて第三国への移住を希望する多くのユダヤ人の命を救いました。
日本は最終目的地ではなく、通過点ですが、通過ビザを発行するためにはいくつかの条件を満たす必要があります。
杉原氏は本国の命令に背き、条件を満たさない人にもビザを発行し、職を賭して人道的な行動を取り、多くの命を救った功績が讃えられています。

実際には、ビザの発行のみで命を救えたわけではなく、最終目的地となる国の入国許可やウラジオストクから日本に移動する際の船への乗船、入港先の敦賀での地元の人々の対応などなど、関係各所の協力によりこのような支援がなしえたのだと学びました。

様々な想いが重なって生き延びた方々がいるイスラエルで、今戦闘が起きている。
このあたりからなんとなくモヤモヤするようになります。

ポーランド ワルシャワ

この頃になると、訪問国の中ではポーランドが最も悲惨な歴史を歩んだのではないかと感じていました。
しかし、いざ街に足を踏み入れると近代的な街並みと旧市街の街並みとどちらも大変美しく、戦後の人々が復興に向けて並々ならぬ努力をされたことが伺えます。

バルバカン
16世紀に建設された要塞の防壁
20世紀半ばに再建
旧市街広場

戦中ワルシャワはドイツ軍とソ連軍により壊滅的な被害を受け、建築物の約8割を失ったといわれます。
100万人以上が暮らしていた街の人口は数千人にまで減少しました。
現在見ることができる街並みは、そのほとんどが戦後の復興事業により再建されたものです。
絵画やスケッチを基に、レンガのひびまで再現されたということで、それが再建された建物なのかどうか、私たちには分からないくらいでした。

POLIN Museum of the History of Polish Jews

まずはポーランドユダヤ人歴史博物館に行きました。
この博物館では、何世紀にもわたるポーランドにおけるユダヤ人の暮らしについて展示がされており、地域社会の中でどのように位置付けられてきたかが知れます。

展示はビジュアルで分かるコンテンツでうまく構成されていて、日本語のオーディオガイドもあるので分かりやすいです。
入場料は45ズオチでした。
オーディオガイドも含まれています。

入館には厳しめの手荷物検査がありました

ユダヤ教とキリスト教の宗教上の関係に起因することや、ユダヤ教の宗教慣例などを理由に古くからキリスト教徒から迫害を受けた経緯もありますが、ユダヤ人が社会的役割を持ち、ポーランド人としてのアイデンティティも持てるような、同化しかけていた時期もあったようです。

礼拝の場 シナゴーグの模型

全体の中で、ホロコーストに関する展示は3割くらいだったかと思います。

「違う時代に生まれていたら」と
どれだけの人が思ったでしょう

POLINという言葉は、ヘブライ語でポーランドという意味と、安らぎの地という意味があるそうです。

戦前1933年頃のヨーロッパのユダヤ人総人口は約950万人。
そのほとんどは東欧に住んでおり、約550万人のユダヤ人がポーランドとソ連に住んでいたそうです。
迫害により死に至った方が約600万人。
ヨーロッパのユダヤ人のうち3人に2人が亡くなったことになります。

ワルシャワ蜂起博物館

1944年ドイツ支配下のワルシャワで起きた、ポーランド軍・市民を含む抵抗組織による武装蜂起についての博物館です。
ドイツ軍との圧倒的な軍事力の差を前に、勇敢に戦った人々の歴史です。
入場料は30ズオチでした。
日本語のオーディオガイドがあり、別途10ズオチで借りられます。
展示とガイドがずれるようなことがあり、少し内容は分かりにくかったです。

ソ連軍に援助を要請するも期待した援助は得られず、イギリスアメリカの空軍機によって投下された支援物資もそのほとんどが域外に落下してしまうという孤立無援に近い状況の中、約2か月抵抗するも、ドイツへの降伏を余儀なくされました。
終戦後、ポーランドはソ連によって解放されることとなり、のちに共産政権が成立し、ソ連の支配下に入っていくことになります。
救いようのない内容でした。
その上、抵抗運動に参加した人は逮捕・処刑され、その名誉回復には長い年月がかかっています。
博物館はワルシャワ蜂起より60年経った2004年に開館したということです。

展示の終盤には、米英露の各国代表が会談をしている描写があります。
蜂起の前からポーランドの運命は決まっていた、ということが書かれていたような。
自国の運命を自国で決めるということに、国の大小は関係ないと思いたいものです。

ポーランド クラクフ

アウシュビッツ・ビルケナウ博物館

最後です。
アウシュビッツとビルケナウに残されたユダヤ人強制収容所の跡地に行ってきました。
日本人ガイドの方に事前に連絡を取ってガイドをお願いしました。
ガイドを依頼しなければ入場は無料です。
今回は少人数での催行となったため、一人30ユーロ支払いました。
施設の保全等に役立てられるということです。

約3時間をかけて施設内をご案内いただきました。
元収容所を利用した展示室には、被害者が隠し撮りしたために残されたドイツ軍による残忍行為の証拠写真、被害者の遺品、生地の原料に使うため刈り取られた被害者の髪の毛、ガス室の模型などがあります。
収容所内の様子、ドイツ軍による証拠隠滅のために爆破されたガス室跡、ヨーロッパ各国からのユダヤ人の移送に使われた貨車などを見学しました。

ガイドさんは事実を淡々とお話ししてくださるので、衝撃はありますが悲観的になりすぎることはありません。
残酷な事実を並べた上で、なぜそのような状況が起きたのかということを、人間の心理や社会の仕組みといった観点でより深く考察し、考えるヒントを下さいます。

情報が多いので箇条書きで。
・アウシュビッツ収容所が建設された当初の目的は、ドイツの支配に反対するポーランド人の政治家や有識者を収容すること
・ナチスの思想の根本には反ユダヤ主義だけでなくドイツ民族の優越があり、人種的に純粋な社会を築くことを理想とした
・戦争の目的のひとつに、農業に適した土地にドイツ人を移住させるため、ドイツ領を拡大するということがあった
・収容されたのは、ユダヤ人・政治犯・ソ連軍捕虜・障がい者・ジプシー・同性愛者などであり、迫害の対象は多岐にわたる
・途中から方針が変わり、ユダヤ人絶滅を目的とした施設になった
・ヨーロッパ中から移送されてきたユダヤ人が選別され、収容所かガス室行きか決められる
・労働ができるとみなされた人は収容所へ、できないとされた病人・女性・子供などはガス室に直行し殺される
・移送された人々の75〜80%はガス室直行、ガス室で殺された人数はのべ約90万人
・ガス室は4か所あり、1日で数千人が殺された
・4つのガス室はすべて爆破されており、この大規模なガス室を作る前に使われた小さなガス室だけが今も残っている
・収容所に入れられた人の写真は、名前・国籍・収容期間等の情報と共に展示されている
・収容所に入った人も劣悪な環境と過酷な強制労働(1日12時間)に耐えられず、2〜3か月で亡くなった方がほとんど
・ガス室は、脱衣所・ガス室・焼却炉で構成されている
・殺された人は記録されることもなく、燃やされ、灰になり、処分された
・死体の運搬等精神的に負担になる作業は、ドイツ軍ではなく同じユダヤ人である囚人が担った
・ドイツ軍が罪悪感をいだきにくいような仕組みになっていた
・様々なカテゴリーの囚人がお互いを監視しあった
・囚人の中に監視役を置くことで、支配を容易にした
・戦前の不況による社会の分断や、無意識の西欧中心主義がこのような歴史を生み出した
・人種排除の過去を反省し、今ヨーロッパでとられている考え方は、排除の対象をつくらないこと
・戦後の日本でも旧優生保護法の基、障がい者を排斥する動きがあった
・LGBTQをどのように受容するかは現代社会のひとつのテーマでもある
・スロープをつくるなどして障害をつくらないこと、男や女といったカテゴリーでくくらないようにすること、などを通して排除の対象をつくらない
・不況、戦争、感染症等を完全に防ぐことはできないことを踏まえて、起きた時のために社会を整えておく
・何か起きそうなときに反応する
・一般に一連のユダヤ人迫害プロセスはホロコーストと呼ばれるが、ギリシャ語で「生贄、犠牲」という意味を表すので、ユダヤ人には受け入れられていない
・ユダヤ社会ではショアと呼ばれる

アウシュビッツ収容所入り口
ドイツ語で「働けば自由になる」と書かれている
周囲に巡らされた有刺鉄線
接触すると電流が流れる 脱走防止
移送されてきた人々
被害者の靴の山
残存するガス室
ビルケナウ収容所入り口
映画「シンドラーのリスト」に出てくる
ヨーロッパ各国に繋がるレール
貨車内はぎゅうぎゅう詰めで直立
遠くはギリシャから数週間かけて
ここで命を落とした方も少なくない
爆破されたガス室跡
ビルケナウ収容所は木造が多く
戦後の資源不足の中多くが解体された
収容所内の寝床
4〜5人が身を寄せ合う
-20℃の極寒の中
小さな暖炉ひとつ

最後に

今回様々な情報に触れ、歴史を学びました。
このような博物館の目的のひとつは、同じようなことを繰り返さないこと。
今ウクライナやパレスチナで起きていることはなんでしょう?
歴史を前に、現在起きていることばかりが頭に浮かびました。
それもそのはずで、ロシアの領土拡大主義・ユダヤ人迫害後のイスラエル建国は単なる歴史ではなく、すべて問題を残したまま現在にも繋がっています。

過去に起きたことは変わらず、争いの種は完全には無くなりません。
国家間の紛争を前に、一市民が終戦を願うことは非常に無力ではありますが、事実の客観的な把握と自分なりの見解をもつこと、暴力ではない形で表現することが大事だと思いました。
1人の力では大きな変化は起こせませんが、小さな力が集まって大きな影響力を持つようになることを忘れないようにしたいです。

翻って、日本の歴史についてもまだまだ勉強不足と感じました。
広島原爆資料館、ひめゆり平和記念資料館など、被害者としての歴史に触れる機会は多いですが、日本の侵略者としての歴史も学び直して、受け止めるべきだと思います。
また、今戦争に対して日本が取っている立場と考えを認識し、それが国民の考えを反映しているか監視し続ける必要があります。

学んだことはすぐ忘れてしまうので、記録のために書きました。
まとめるのに時間がかかってしまい、たった数日前のことなのに分からなくなってしまったことも多々あります。
繰り返し学び続けることが大事ですね。
数字など調べ直して書きましたが、間違えている部分がありましたら、ご指摘いただけますとありがたいです。
取り留めのない文章になってしまいましたが、最後まで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、感謝申し上げます。

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