祭りの音にひそむ日本人のDNA

一年を過ごしていると、風景の中に日本の文化を感じることがある。
春の桜といった四季折々の風景に始まり、季節の変化に伴う数々の行事もあるだろう。でもそういったものは、日常的すぎるからか、ふわっとした感覚のほうが大きいかもしれない。ステレオタイプ的に、こういうものが和風ってことでしょ?とでも言いたげなものは数多くあったとしても、身体の真ん中からゾワっとするような感覚を得ることは、生きていてそんなに多くはない。

私にはこれまでそんな感覚に出会ったことがいくつかあったが、今振り返るとその中でも特に日本人のDNAを感じるシチュエーションが「青森のねぶた祭」だった。

旅に出た当時、出会った人に誘われるがまま訪れたのが青森だった。ちょうどねぶた祭の時期だったが、失礼ながらこれまでねぶた祭というものは、文化的な資料で見たことしかなかった。ねぶたと呼ばれる大きな山車灯篭に、にらみ付けるような様相の武者のアレである。「ラッセーラーラッセーラー」という呼び声も、ニュースの一幕で見たぐらいしか覚えがない。

知り合った友人に言われるがままに、浴衣や履物を揃え、会場へと向かった。成人してからの祭りなんてものは、とにかく人、人、人、と人ごみの中を歩いて屋台で食べ物を買って酒を飲むくらいしか魅力がなかった。花火大会なども、花火を見に行ったのか、浴衣を着たかったのか、屋台へ行きたかったのか、一体何をしに行ったのか目的を忘れてしまいがちなのが、自分にとっての、大人の夏祭りだった。ねぶた祭りも行くまではそんなイメージと大差はなかった。

だけど、青森のねぶた祭は違った。

「ドン、ドンドンドンドン。。。。。ドォオオオオンンン!」

始まりの太鼓が鳴った瞬間、心臓の奥がどくんって動いたのを感じた。一斉に始まるお囃子の笛の音、重なり合う手振り鉦、腹の底に響く太鼓の音、祭りを構成する音の全てが自分の血液に響くのだ。

ねぶたは運行ルートを練り歩き、その年にできたねぶたをお披露目するようになっている。観光客は道路の脇や曲がり角でその様子を眺めるのだが、ねぶたがやってきた瞬間にも「ワッ」と興奮する声が聞こえる。ぐわあっと会場のボルテージが上がっていくのを感じる。

お囃子の音色は聞いたことがあっても、本物の揺れる音色を耳にしたことはなかった。この音の響きや鳴り方が体中に染み渡る。しみじみ、ではなく、脈々と、という感じなのである。腹の底からの掛け声に、応える声、弾む音、踊る空気、肌にぴったりと張り付く感じが、ああ自分は生きている、と思えてくるのだ。

街中が熱にうかされたようなねぶた祭だった。この祭りに行って肌で感じた感覚は、はたして祭りが見せた幻想か?とも思ったが、どうやらこの「音」にあるのではないかと思った。不思議なことに、和楽器というものの音は大変心地よく、腹に響く。それがこのお祭りという日本文化の背景に溶けた瞬間、夏の暑さもあいまってか体中の血流を流れるように響くのである。

それから何度かねぶた祭へ訪れたが、その時から、夏祭りって好き?と聞かれたら、かならずねぶた祭と答えるようにしている。「ぜったい行った方がいいよ!感動するよ!」とうざいぐらいの熱量を語ることができる。もう今では、ネットで中継を見るだけだけでも感動している。この文化があってよかったとすら思っているのだ。祭りの音色は、日本文化をあらためて感じさせてくれると思っているのだ。

余談:まぁでも本当は、他の地方や国のお祭りも行ってみたい(他の場所にもそんな感動が得られる祭りがもしかしたらあるかもしれない)。そんなミーハーなところも、良いとこどりの日本文化の一つではないだろうか。

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