とある夫婦のワンシーン

「うそでしょ」

思わずメグミの口からこぼれたのはたぶんどちらともいえない自分の本当の気持ちだったと思う。
まさかと思って試した妊娠検査薬は、イイエ、万分の一も違いませんよ、とでも言いたげな強く濃い陽性の赤色を示していた。

*****

「桐谷さん、次回のプロジェクトなんだけど」

ふいにかけられた声で現実に戻る。
ぼうっとパソコンの画面を見つめていただけで、仕事は何も手に付かなかったところを同僚の声ではっと目が覚めた。

「ああ、すいません、ちょっと意識がどこかへ」

「今ね、見てたけど、どうしたの? めずらしいね」

苦笑しながら答えるメグミに同僚が微笑みながら訊ねたが、まさか妊娠したんです、なんてこと言えやしないだろう。

「いえ、ちょっと今夜の晩ご飯なににしようかなって」

当たり障りのない話題で気を逸らし、仕事の話へと戻す。これはすぐには解決できない問題だから、一旦置いておこうと自分を諫める。今は仕事の時間なのだから。

よくある話だが、仕事を始めて10年がすぎ、色々なプロジェクトを任されるようになった。俄然、仕事が面白くなった。

鬱鬱とした20代は社会人という流れに流されながら、いつも不満を口先に携えていたように思う。会社が嫌だ、上司が嫌だ、仕事が嫌だ、、、。
けれど、一周回ったとでもいえばいいのだろうか、仕事の進め方、周りとのコミュニケーションの取り方、ストレス発散方法をしっかりと身に付け始めたと思しき頃から、するすると人生の歯車が動き出したような感じがしたのだ。

仕事が楽しい。仕事を通じての学びが楽しい。同じ思いで仕事をする仲間がいて嬉しい。仕事終わりにビールを一杯ぐいっと飲むことも覚えた。格別の味だった。どれもこれも満たされていて、毎日を充実させるためには十分だった。

プライベートも、同じく。

夫のマコトとは、友人期間を長く過ごし、1年ほど交際期間を経て結婚へと至った。ごくごく、普通。背は高すぎることなく、テンションも高くも低くもなく。友人期間が長かったから大概のことは何でも話せるし、相談もできる。出会った頃はこの人と付き合って結婚するなんで微塵も思っていなかったけれど、お互いに適齢期というものにぶつかったときに、こんなにベストなパートナーは他にはいないのではないかと、ある種のひらめきのような感覚が降って沸いてきたのも、初めてだった。


「子どもはどうする?」

結婚しようか、という話が出たときに、何気なく出た言葉は、どちらが言い出したのか覚えていない。でも、夢見がちな結婚ではなかった私達は、いくつかの確認項目があった。新居や、仕事、親との同居、いずれ来るかもしれない介護やそれらにまつわる問題。大まかに方向性を確認しておくことは大事だと思っていたし、相手もそう感じていたと思う。
そんな中で順当に出てきた子どもについての話題には、どちらともなく

「いてもいいし、いなくてもいい」
「だけど、教育資金もかかる」
「旅行も行けなくなるよ」
「共働きで頑張るしかなくなるね」
「帰りに突然飲みに行くなんて無理だしね」

なんとなく、双方とも子育てなんて大ごとになりそうだ、という意識しかなかった気がする。出てくる言葉もネガティブなものが多かった。そういう意味でも、意気投合していたと思う。

『いてもいいけれど、いなくてもいい』

というのは、逃げだったのかもしれない。と振り返って思った。周りの友人にも健康そうにみえて婦人系の病気を抱えている友人もいるし、何年も不妊治療で悩んでいる友人もいる。とてもプライベートでデリケートな話題であることと同時に、健康体だと思っている自分とは、遠いようで実は真横にあるかもしれないと感じていたのだろう。もし欲しくなったときに、ダメだった理由が欲しいから。臆病な自分を表すには十分な言葉だったな、と思った。


******

親友のヨウコにLINEをした。

「まだ、旦那にも言ってないんだけど、妊娠したかもしれない」

ヨウコは2年前に出産した大学時代からの友人だ。すぐに既読の文字がついた、と同時に驚きと喜びのスタンプが連打で送られてきた。

「うそ!!ほんと!?」
「やったーやったー!!メグミがママになるなんて最高!」
「いつ産まれるかな?いまからワクワクしちゃう」
「とにかくオメデトウ!!!!ハッピーだよ!!!」

こちらの気持ちを置き去りにしたまま、興奮さめやらぬ口調のメッセージが届く。(こういうところ、変わらないな・・・)苦笑しながら返信する。

「ありがと。わたしはなんだか想定外で混乱してるけどね」

「そんなの、なるようにしかならないよ!でも大丈夫!」

無邪気なレスポンス。これがカナエの良いところだ。今朝からずっと妊娠について検索しすぎて、色々な情報が頭の中を駆け巡っていたところに、何の根拠もないけど、ただただ温かいコトバが、ドン!と背中を叩いたようだった。


********

「今夜は、疲れてゴハン作りたくないな。外で食べない?」

金曜ということもあり、マコトへLINEした内容の返信は一言OKのスタンプのみだった。キャラクターが笑顔でジャンプしているから、まんざらでもないのだろう。妊娠を伝えたらなんていうかな。びっくりするかな。困った顔するかな、もし、嫌な顔したらどうしよう・・・。いろんな感情が浮かんでは消えていった。

外食は嫌いじゃないけれど、結婚してからは頻度がぐんと減った。お互い家でゆったり飲むのが好きなタイプだったから、外食の機会が減ることへの不満は特になかった。大人2人の晩酌には、簡単なつまみに、ビールを用意すればそれで充分だった。だけど、今日はそんな気分じゃなかった。家というプライベートな空間は快適であって、だけど包み込むようなその空間は息苦しい閉鎖的な場所にもなり得る。

マコトと駅で落ち合う。今日の仕事の出来やたわいもない会話をしながらオープンテラスのイタリアンへと向かう。夜の気温も上がってきたこの頃は、外の空気を感じながら食事するのが楽しい時期だ。

「外食なんて、ひさしぶりだね」

席に着いてメニューを開きながら、マコトはそういった。うん、そうだね、と相槌をうちつつ、横からメニューを眺める。

= 本日のオススメ カラスミのオイルパスタ =

「何頼む?俺はー、とりあえず、ビール飲みたいかな。メグミも飲むだろ?」

外食の時に飲み物を頼むときにはいつも同じ口調で聞いてくれるけれど、今日は口を濁す。

「ううん、、、今日は、どうしようかな」

そう言った途端、マコトはメニューから顔を上げ、メグミの顔を覗き込んだ。

「え、何、どうしたの?珍しいじゃん。風邪でもひいた?」

即座に体調を心配してくれるところ、、、変わってないなぁと思いながら、メグミは一息ため息をついてから、伝えたのだった。

「妊娠したみたい。わたし」


*********

普段からテンションが高すぎることもなく低すぎることもないマコトは、それでも小さな目が1・5倍になるくらい大きく目を見開いて、一息黙ったあと、努めて大きな声を出さないようにつぶやいた。

「・・・うっそ、まじで・・・!・・・やったじゃん・・・!!」

マコトの口角が上がっているのを見たとたん、メグミの肩から力がするすると抜けていくのがわかった。そして本当に思いがけず、アハと笑い声が口から漏れだした途端、マコトの言葉が震えていたことに気付いた。

「え、なんで?えーとだって、本当に?いつ分かったの?え、今日!?いや、えーと、嬉しいよ!俺は。めちゃめちゃびっくりしたけど。うわー、なんていえばいいんだ?おめでとう?いや違うか?自分たちのことだし、でもいやいつ産まれる?あ、まだわかんないか?」

いつも落ち着いているマコトが、ちょっと焦っている時は言葉が多くなって少し早口になる。それを知っている自分が、少しうれしくて、恥ずかしくて、そしてどうしようもない愛おしさで胸がいっぱいになった。

誰にでもありえる、パートナーへの妊娠の告白は、どれだけの信頼をもってしても、一種の緊張感があるものなのだな、とメグミは感じていた。自分が親になるという重責への覚悟を迫られる圧力を感じながら、人生の岐路が突然目の前に現れたことへの戸惑い。右を向いても、左を向いても、以前の自分には戻れないということを本能が知っているようだった。一切の孤独。だからこそ、ベストパートナーと今の段階では呼べる夫への告白とそれに対するレスポンスを受けとるにはとてつもない精神の摩耗を感じたのだった。

「とりあえず、食べよう」

メグミの提案に、汗をかきながらマコトはうなずいた。

「わたしは、今日のおすすめにするわ」
「わかった。えーと、あと、アルコールはこれからはまずいよな。今日はジュースにしよう」
「別にマコトは普通のビール飲んでもいいんだよ」
「いや、まぁ分かってるけど、今日ぐらい一緒に想いを共有したいなと思って」
「え」
「いやーなんだか落ち着かないよ。ふわふわした感じ」

さらっと言ったマコトの姿にメグミは驚いた。そして、息をのんだ。

ああ、そうか、わたし、この自分の気持ちに共感して、そして共有してほしかったんだ、、、とメグミは気づいた。自分の中に芽生えた本当に小さな変化。是か非か、いまだ判別できぬものを抱えることはたとえ数時間という短い間でも重く苦しかったのだ。

妊娠が分かったときに、これまで大切にしてきた充実した毎日が、これからは手元からなくなってしまうと予告されたように感じたことは、あながち間違いではないと感じてきている。以前は何気なくできたことも一つ、そしてまた一つ、と手放さなければいけないタイミングも増えていくのだろう。

これを受け止めてくれるひとがいる。分かろうとしてくれる人がいる。この人がいるなら、きっと大丈夫。重い重い荷物をちょっと持ってと言える人がここにいた。

「言うの緊張した?なんでよ。笑。でもそっか。大丈夫。また楽しみが増えたな。ありがとう」

自然と笑顔でありがとうと伝えてくれたマコトが嬉しかった。
大好きなビールはしばらくお預けだけど、いつかまた、きっと乾杯するときが訪れる。その日が来るまでは、家族が増える喜びを楽しみにしよう。

「こちらこそ、受け止めてくれて、ありがとう。これからも、よろしく」

コツン、とグラスを合わせてささやかに乾杯した。初夏を思わせる爽やかな柑橘系のジュースは、あの充実した日々に飲んだ一杯のビールと同じくらい美味しかった。


※すべてフィクションです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?