少女終末旅行とニヒリズム、その超克 ーなぜ「生きるのは最高」だったのか?ー
『少女終末旅行』と「生きること」
人は必ずいつか死ぬ、全てを失う。それなのになぜ生きるのか。人類はいずれ滅びるのに、人間が存在する意味はどこにあるのか。このような疑問を一度たりとも抱いたことのない人はいないと思います。普段はあまり意識していなくとも、特に、生きることに悩んだり苦しんだりしている時にふと、これらの「生」に対する問いが頭をもたげてきます。そしてその問について「なぜか?」と考え続けても、揺るぎない確かな答えが得られず、不安感、無力感、ひいては絶望感を抱いてしまうことも時にあるかもしれません。
つくみず先生による『少女終末旅行』では、我々人類が消えゆく存在であることが、その世界設定を通じて、明確に示されています。文明が崩壊し、人が消え去った街並みは、人類が宿命として終わりを持つことを私達読者の眼前に突き付けてくるようです。人により程度に差はあれど、このような世界設定を前にして、私達は上記のような問いについて向き合わされるのではないでしょうか。
この物語は私達に生きることを問うよう語り掛けてくるようです。現につくみず先生は、2020年に開催された「つくみず展」での「つくみず先生へ100の質問」内で、この作品に「生きること」へのメッセージが含まれていることを示唆しています。(画像)
チトとユーリを包む「虚無的なもの」
この「生きること」について語られる物語の中で、主人公であるチトとユーリは旅を続けます。文明崩壊後の世界を生きる彼女達には、従うべき文化的規範も、信仰すべき宗教も、所属する共同体も存在しません。本来であれば生きる指針、あるいは意味を提供してくれるはずの基盤が、二人には欠けているように見えます。二人はまるで拠り所なきまま、ただよいながら生きているかのようです。ニーチェの以下の言葉を基に考えると、彼女達のこのような生はニヒリズムのただなかにあると言ってもよさそうです。
人類文明の崩壊を目の当たりにする彼女達の生は、決定的に支えとなるものが欠けていることが露呈しています。その意味において、二人は強い虚無的なものに包まれた生を送っているように思えます。
しかし、チトとユーリには唯一の目的と言ってよいものがあります。それは「上を目指すこと」です。彼女達は育ての親である「おじいさん」のもとを離れる際、彼に「上へ登りなさい 下はだめだ」と言われていました。
その言いつけ通り、彼女達は旅を続けながら、上を目指して進んでゆき、物語終盤において、とうとう最上層へ到達します。
旅の終わりが近づくにつれ、二人は色々なものを失っていきました。銃を失い、本を失い、食料も尽き、家族同然の存在であったケッテンクラートまでも失ってしまいました。それら喪失の果てに、何が待ち受けているのか。果たして最上層には何があるのか。二人は期待と不安を胸に最上層へと続く階段を上ってゆきます。
そして二人の前に現れたのは、一面の「無」でした。雪だけが広がる景色がそこにはありました。唯一ものと呼び得るのは、何の役にも立たない黒い石のみでした。
最上層に着き、彼女達はその唯一の目的を果たしました。しかし、達成して得られたものは、その目的が全くの無意味であったという事実ただそれだけでした。
ここにおいて、彼女達の生を包む虚無的なものは極限にまで高められています。帰属すべき共同体の規範を持たず、宗教的な神を持たず、種としての未来に希望を持つこともできず、そして最後の望みであった「上を目指すこと」すら、空虚であったことが顕わとなりました。そこに私達が見いだせるのは、ただただ、むなしさが満ちていく生、基底を欠いた生、目的なき生、そんなものであるかのように思われます。彼女達の生はもはや絶望的なものであるとも言えそうです。
虚無的なものに包まれながらも、なぜか絶望しないチトとユーリ
ところが、ここで二人は絶望とはかけ離れた態度を見せます。チトが漏らした後悔を退ける形で、ユーリは「生きるのは最高だったよね…」と言ってのけるのです(チトもこれに同意する)。これは一体どういうことなのでしょうか。どうして彼女達は失意にのまれず、生きること、これまで生きてきたことを「最高」として捉えることができたのでしょうか。私達読者のあずかり知らぬところで、二人は生きる明確な意義を把握していたのでしょうか。
そうではありません。ユーリは上記のセリフを発する前にこう言っています。
彼女達にも、自分達がどうしてこの世界に存在しているのか、つまり生きているかは「わかんない」のです。一見、謎は深まるばかりのように思えます。
しかし、実はこの「わかんない」というセリフにこそ、彼女達が「生きるのは最高」と捉えられた理由についての手がかりがあるのだと私は考えます。「なぜか?」という問いを放棄し、「わかんない」で留まる覚悟と勇気があったが故に、彼女達は歓びを得て生きられたのです。
一体なぜそう言えるのか、そしてそのように生きられる生はどのようなものであるのか、詳しくみていきます。そのために少し遠回りかもしれませんが、「なぜ生きているのか?」という問いについて深く掘り下げてみることにします。
(ここから先、後藤[2017]による後期ハイデガーの存在論解釈を参考にして話を進めていきます。)
「なぜ生きているのか?」と問うことの限界
「なぜ生きているのか?」と問うとき、背後には、「生きて在ること」を「もの」であるかのように扱う態度が前提とされます。「もの」を扱うとき、私達は自分の側を、目的や根拠、意味を探求する「主体」とし、「もの」をその対象となる「客体」として捉えます。主体は客体に目的や根拠を見つけ、世界を解釈していくのです。例えば、ある「もの」を「椅子」として把握した主体は、そこに「(誰かに)座られるためのもの」という目的(ないし根拠)を同時に発見することができます。
そして「椅子」に対するものと同じ眼差し、目的や根拠を探求する眼差しを「生」に対しても私達は向けるとき、私達は「なぜ生きるのか?」という問いを抱くことになります。
ところが、「生きて在ること(存在)」はそのような「もの」に対して行われる根拠づけは妥当しません。なぜなら「生きて在ること」は根拠づけという行為そのものを可能にする場をつくる地面のようなもの(※)だからです。「もの」や「主体」を全てひっくるめた「存在者」は存在という地面の上におり、同一の地平にいます。それ故に存在者の下に存在者を置き、それを根拠とすることができます。先の例を使えば、「椅子」という存在者は「座るもの」という存在者を下に置いて支えとし、根拠づけることができます。しかし、「存在そのもの」は土台であり、「もの」や「主体」を支える地面であるので、その下に何かを置くことはできません。ですから、存在はいかなるものによっても根拠づけが不可能なのであり、主体がいくら存在を下から支えようとしても、つまり「なぜ存在するのか」という問いを投げかけても、その営みは必ず失敗に終わるのです。
(※あくまで根拠づけの不可能性を説明するために、この地面のイメージを用いましたが、存在を地面という「もの」的イメージで捉えている時点で、これは正確ではありません。ですので、存在の実態とは乖離しています。例えばこのイメージでは「存在」の支え方(根拠づけの仕方)と「もの」の支え方が同じであるかのように把握されそうですが、実際には「もの」の支え方は「なぜか?」という問いの答えとして(例え仮初のものであるにしても)機能しますが、存在の支え方は特殊で、そのような問いに対する答えは提供してくれません。このようになってしまうのは、存在は理性的認識が不可能であることに起因しています。存在は地面(根拠)「的」である(私達は存在するがゆえに存在者として現れる)のに、地面とはならない(存在を「なぜか?」に対する答えとして扱えない)のです。詳しくは後藤雄太著『存在肯定の倫理I』第6章をご確認下さい。)
ちなみに、「存在」が必ず根底にあるがゆえに、自分の生きる根拠を共同体、宗教などに託す試みも究極的には失敗します。なぜなら、例えば「私」をもの的に捉え、その下に「神」を置いたとしてもその下の「存在」が問題となる、すなわち「ではなぜ神が存在するのか?」という問いに突き当たってしまい、根拠づけが果たされなくなるからです。したがって、「私」の下にいくらか支えがあるように普段は思える私達も、「私」の下にじかに「存在」があるチトとユーリも、本質的には同じ状態にあると言えます。先ほど、チトとユーリは強い虚無的なものに包まれていると言いましたが、正確に言えば虚無的なものがより身近に感じられるというだけで、虚無的なものの強さは私達とそう変わりません。換言すれば、私達と彼女達で、無根拠という問題の深刻さは変わらないということです。したがって、チトとユーリが直面する問題は、私達と十分共有され得るのです。
長々と述べてしまいましたが、要するに、「存在」は私達を含めた「存在者」の営みの根拠的なものであるのですが、そのものは根拠づけられることが決してないのです。ですから、「なぜ存在するのか(生きて在るのか)?」との問いを発し続けること、そしてその背後にある、認識可能な究極的な根拠や目的が存在し、そのことにのみ価値があるとみなす態度は絶望的な結果に終わります。
そのため、そのような認識できる根拠にのみ価値を置く態度を捨て、「なぜか?」と詰問することを止める勇気を持つことが、絶望せず生を捉える上で求められます。
ユーリの「わかんないよ!」はそのような態度、問いを抱き続けることへの拒否の現れであると私は考えます。彼女は「なぜか?」と問わず、「わかんない」と断定し、問い以前、つまり「生きていること」そのものへと適した形で関わることのできる場へと立ち戻っているのです。
「なぜか?」と問わないがゆえに、「生きるのは最高」
問いを捨てた彼女にとって、無根拠、無目的に生があることはもはや問題となりません。問題とならないがゆえに「生きるのは最高」と感じることが可能となったのです。無根拠、無目的さはそれ自体で絶望を引き起こすものではないことがここから分かります。真に絶望を招くものは、「通常の」認識で捉えられる範囲に絶対的・究極的な根拠を求めるその態度なのです。ニヒリズム研究者である後藤[2017]は実際、こう述べています。
生そのものを対象化、根拠づけしようとせず、「なぜか?」という問いの枠組みから逃れ、そして足元に在る「存在」という故郷に立ち戻ったがゆえに彼女達は絶望せずに済んだのです。そのため、本来であれば「絶望」とみなされる無目的、無根拠と言う事態と「仲良く」なることができたのです。そのようにして彼女達は絶望的なニヒリズム的状態から、「転回」し、「最高」と叫ぶことができたのです。
さらに、対象化、根拠づけから逃れるその態度は、「わかんないよ!」の発言以外にも、それと同時になされていた行為にも象徴的に現れています。以下でそれを見ていきます。
チトとユーリの「遊び」から見る彼女達の生の在り方
彼女達は当該の場面で「雪合戦」をしていました。言うまでもなく雪合戦は「遊び」の一つです。遊びというのは有用性のある目的を欠いているところにその本質があります。また遊びのルールにも、「なぜそうあらねばならないのか」との問いに答える根拠が欠けています。遊びは無根拠的、無目的的なものなのです。それらを了承し、私達は遊びに興じ、楽しむのです。
彼女達の雪合戦も同様であるどころか、無駄に体力を消耗するという現実に鑑みれば、有用性を追求する目的に大いに反するものとすら捉えられます。このように彼女達の無目的、無根拠さを恐れずその中に積極的に身を投じる態度が、遊びを通じて象徴的に顕わになっているのです。
さらにこの「遊び」を手掛かりに、無目的、無根拠さを正面から見つめる彼女達の生がどのようなものであるのか、考えることができます。ガダマーという思想家によれば、「遊戯」は対象化されるものでもなく、主体が行うものでもないと言います。後藤[2017]は彼の遊戯に関する思想を要約し、次のように述べています。
いかなる対象化、表象化からも逃れる仕方で、「遊戯」というものはその場に、認識から隠れるようにして現成するのです。
そうした特徴を持つ遊びですが、遊びに没頭するものは決して遊びを無意味とは捉えません。しかし一方で遊びを意義あるものと主張し、遊びを「肯定」しようともしません(自身がスポーツやゲームなどに熱中し、我を忘れている場面を想像すると分かると思います)。遊びはそのような「意味」の通用しない次元で現成するのです。しかしながらそれでいて、「喜ばしいもの」として感じられるのです。
そして「生きて在ること」も、同様の仕方で現れてきます。それは理性の把捉を逃れる形で、根拠、意味付けを成せることのできない、主体、客体の区別もない全くの別の次元から「遊戯的」に到来してきます。ハイデガーはこうした「遊び」と「存在」の類似性について、こう述べています。
ニーチェもまた生を「一つの神的なる戯れ」であると形容していますが、それはまさに生が遊びとして捉えられることを指し示しているのだと思われます。
このような生の性質を直観的に了解したがために、彼女達は生を喜んで迎え入れることができたのではないでしょうか。
主体が崩壊する世界
ところでこのように「遊戯的」に生と関わるとき、自他を区別し、意味付けをなす「主体」は崩壊しています。より正確にいうなれば、主体は存在の上で成り立つ、仮初のものにすぎないことが明らかとなります。そのことを自覚したとき、私達は自身が主体となって、出会うものを対象化していく以外のやり方で世界と関わる可能性が開けています。
このことは最上層へ続く階段を上るチトのセリフ、また、「生きるのは最高」直後のチトとユーリのやり取りに見出せます。
「ひとつの生き物」「自分と世界がひとつ」といったことは、主体、客体を前提とする認識の上ではありえません。対象化してものを捉えている限り、自他の区別から逃れることはできず、決して「ひとつの生き物」になることはできないからです。
それに対して彼女達は、上記のセリフからわかる通り、主体の欠落した世界把握の在り方を、たとえ言語的にきちんと理解をしていなくとも、身体的に感じ取っていたのです。そして、そう感じ取っていたからこそ、対象化以外の仕方で世界、ひいては生と関わることを直観的に認めることができ、「生きて在ること」に対して「なぜか?」と問う以前の場所に戻ることができたのではないでしょうか。
まとめ
つまるところ、彼女達は主体と客体の二元論的な世界把握から脱け出で、生そのものを根拠づけの対象とせず、「なぜか?」と問うことを止め、ただ喜ばしいものとして「生きて在ること」を受け入れたがゆえに、「生きるのは最高」と感じられる境地に立ったのではないか、というのが結論です。無目的、無根拠なる生をあるがままに見つめ、絶望することなく彼女達は生の持つ美しき喜びを感じ取ったのです。そこにもはやニヒリズムの落とす暗い影の姿はありません。「なぜ」のない明るい生が現成しているのです。
旅の途中で出会ったカナザワとイシイが、それぞれ地図作り、自作飛行機による対岸への渡航といった自身の目的を失いながらも、なお失望せず立ち直ることができたのも、「なぜか?」と問うのを止め、「絶望」的な無目的という事態と「仲良く」なることができたからかもしれません。そんな意味なきものを意味なきものとして歓迎して迎え入れる彼女達の姿を見て、希望や勇気を抱かずにおれるでしょうか。感動せずにいられるでしょうか。
チトとユーリが物語最後のシーンの後、たとえすぐに死に絶えていたとしても、もはやそれは絶望的なバッドエンドではありません。二人はすでに生のもたらす原初的な至上の喜び、生そのものの豊饒さを味わい尽くしているからです。これを真のハッピーエンドと言わず何と呼びましょうか。むしろ、最上層に食料や住居などが残されていて、彼女達が「私達はこのために旅をしてきた(生きてきた)のだ」と、これまでの生を目的に仕える道具のようにとらえてしまう可能性が生じてしまう展開の方こそ、私にはバッドエンドのように思えるのです。生そのものを捉えない限り、至上の喜びは決して訪れないように思えるからです。何もない、徹底的に無の中でも、生そのものを見つめ、歓待する。これこそ私はハッピーエンドであると言いたいのです。
無の中でも生を喜べる。少なくとも彼女達と作者であるつくみず先生はそのことを信じていたようです。つくみず先生は『少女終末旅行』第6巻のあとがきでこのように述べています。
そのように信じることができた彼女達は、いかなる結末を迎えようと、喜びをもって迎え入れることができたと私は思います。
あとがき
長々と書いてきましたが、結局のところ、自分が一番言いたかったのは「少女終末旅行は最高だったよね…」ということです。そのことについて説明しようとした結果、自分にとってはこのような形になってしまっただけのことです。文章を書くのに慣れていないため、色々と読みにくい部分があったかもしれません。ですが、少女終末旅行という作品を自分が愛しているという事実だけは伝わって欲しいと思います。読んでくれた皆さまと解釈等々異なる部分があったと思われますが、「愛する」気持ちだけは共有できていれば幸いです。
ここまで読んでくださった方々、どうもありがとうございます。それでは皆さん命あらばまた他日。絶望と仲良く。では。
参考文献
・後藤雄太(2017)『存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い』ナカニシヤ出版
・つくみず『少女終末旅行』第1-6巻 新潮社
・原佑 (1962)『ニーチェ全集 第11巻』理想社
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