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信条もないし意識もしてないから

人というのは、非常に自分の生き方というものに疑問を持ちながら生きていく生き物である。

その気質が強い人間、反対にほとんど意識もしてないない人間もいる訳で、その辺色々変な話である。

ほんとの自分って何なのか、中学校の頃から高校に掛けては酷く悩んだなぁと思う。

生き方なんて大層な言葉を使ってみたけど、実際は性格とか人からの見え方だったりそういう個々のパーソナリティ的な部分である。

今は随分時も経って大学生になってみたりもしてるけど、その辺気にする人間っていうのはいつになってもふとした瞬間にそういうことを考えたりしてしまう。

実際人に合わせていると、なんだかもう普段の細かい自分の所作までが社会的に取り繕ったものなのか、元々自分がそうだったのかさえよく分かんなくなってくる。

ここで自分の性格的な部分を少し話しておくと、基本的に人のテンションに合わせて変えて波長を合わせようとする傾向にある。

元々別にテンションが低い人間という訳ではないけど、自分より更に高い人っていうのは当然いる訳で、低い人もまた同様に存在するのである。

全く同じ人っていうのはほとんど存在しないに等しいだろうから、もう自分以外の人を他人っていうカテゴリに引っ括めた場合、その"他人"と話すときは必ずテンションを上げたり落としたりで忙しないことになってしまう。

だから疲れる。

でも今こうやって文章に書き起こして自分っていう存在を俯瞰して見ると、人への共感性とか協調性が高そうな人間にも思えるね。

なんだか話が纏まらない感じになってきたけど、多分別にテンションを上げようが下げようが悪いってことはないんだと思う。

「今人に合わせてるなー」って感覚は他人と話し始めるときに確かに分かって、どうにかその前のテンションまで戻そうと自らの心に探りを入れる訳だけど、なんかその作業も結構疲れたりで余計に分かんなくなったりする。

そりゃ他人と話すときは程度の差こそあれ誰だってその人に合わせようとはしてるんじゃないかな多分。

でも別にそれだって相手と楽しい時を過ごすための術であって決して悪いことではないじゃない?

まあでもそういうのって疲れたり、普段使わない感覚を使おうとする分会話の内容が思い浮かばなくなったりして面倒くさいから、その時その時の自分のテンションで相手に接せればいいんじゃないかってことで。

よく笑う人っているし、口数少ない人もいるし、ちょっと生きてるコミュニティが違うんだろーなーって人とも喋ることはあるし、あとは性別の壁も未だにあんまり慣れちゃいない。

でもまあその時その時、日によって変わるその場のテンションで接して、明らかに合わなかったらそれはもうその人とは合わないってことで割り切ればいいじゃないよ。

そりゃさ、明らかにめちゃくちゃな不機嫌な態度とかとんでもない傲慢を他人に対して働いて嫌われちゃ多少自分の行動言動を省みた方がいいけど、多分その辺のラインわ甚だしく分かってないって訳でもないし。

少しは自分を信じてもいいんじゃない?っていう。

ね。

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