えんとつ町のプペル

お笑いコンビ「キングコング」西野さんの絵本が原作で、その出自もあって一部でカルト的人気を誇る「えんとつ町のプペル」(以下「プペル」)だが、僕の色眼鏡には叶わなかった部類である。

順を追っていくのだが、元々の絵本に関しては間違いなく一つの歴史的作品である。
作者てある西野さんも言っている通り、一般の絵本とは勝負処がまるきり異なり、存分に時間と手間をかけた絵の数々は唯一無二の作品だ。
昨今のマンガ業界・WT業界では一般化しつつある分業制を用いたのもそれまでの絵本業界では異質で、絵本というフォーマットの性質上 真似をしようとしてやれることでは(質の面からもお金の面からも)決して無い。
そこは素直に認めるべきだし、映画版も内容以上の予算が費やされていると思われ、ピクサー作品をベンチマークに出されても美術的クオリティーには納得できる。

ただし、映画というフォーマット上においてはその美術クオリティーは一要因でしかなく、むしろそれ以上に内容とその内容を如何に魅せるかの演出力だったりが重要になってくるワケだ。
世界観はスチームパンク感があり、星が見えない設定もかなり説得力がある。
一方でキャラクターの動機や思考に不自然さがあり、その時点で物語への没入感は損なわれてしまっている。
だが、これは絵本というフォーマットではよくあるような気がしていて、「絵」に物語性を持たせて文や台詞はその説明を補佐するものという成り立ちによるものだと僕は考えている。
もっと極端に言ってしまえば、「モナ・リザ」という超有名絵画は見るものを圧倒する絵の美しさがあるし、その絵から女性がどういう人かを連想させたり、色合いや雰囲気や背景からその女性の持つ背景を考えたり――と物語を見ようとするし見えるものもあるが、決して起承転結の整っている一定区間を切り取った時空間ではない。
これと同じことが「プペル」にも起きていて、絵本ではそれで良かったが映画ではより細部を綿密に描く(美術的な意味ではない)必要があったのではなかろうか。
だから展開に不可解というか突飛なものが多く、その割にありきたりな展開や見え見えのオチで意外性もなく、「中身が薄い」と評されるのである。
敢えて言うが、作品の描かれていない部分を受け手に読み取らせるということと、描くべき部分を読み取って貰えばいいから描かないということは全く別である。
言わなくても分かるよね、は創作物には存在しない。

冒険譚としては僕はピクサー作品と遜色は無いと思っていて、それは正直ピクサー作品も別にすごい仕掛けがあるものではないと思っているからだ。
児童層向けということもあってテーマが複雑なものでもないし、オチもありきたりである。
ただし、描くべきものは描いてあるからキャラクターの設定にその世界のリアリティーが存在しているワケで、絵本への逆輸入をすればそちらの土俵でも「プペル」とがっぷり四つの勝負ができる。
「プペル」が映画の土俵でそれを成し得なかったのは、映画でも絵本と同じ戦い方をしようとしたからだと僕は思う。

ちなみに数字の上では成功したのだろうか。
クラファンで制作した以上は成功しているのかもしれないが、俗に言う「信者」以外の評価を見れば、興行収入はアテにはならないので、逆にそのあたりのラインは僕には分からないし、調べるほどの興味もない。

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