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モノとわたしと思い出と

 30歳を過ぎて、こんなご時世だから家で持て余す時間も増えて、ふと、学生時代から集めてきたコレクションや小さいころからの思い出のアイテムが詰まった箱などを覗き込む機会も増えました。私は、捨てられない癖があるわけではないけれど、思い出のあるものは残しておくタイプ。もし、私が今このモノたちと急に別れることがあったら、どんな気持ちになるのだろう。どんな風に生きていくのだろう。そんなことを考えた、「わたしとモノと思い出」の話です。

□モノとわたしの関係性

 私は、捨てる時は潔く捨てるところもあります。一方、捨てても別に困らないのに、なぜかどうしても捨てられないと判断するものもあります。どういう線引きなのかと言われると、正直自分でもよく分かりません。ただ、気に入っているかいないかではないのははっきりしています。気に入っていても、次のお気に入りがあればお別れすることができますし、頂き物でも、もちろん使わず捨てるということはないですが、使い切ってお別れの時が来たと思えばお別れできます。一方で、特に深い思い出じゃなくても、特に深い関係じゃなくても、その時買った・もらったモノで、捨てられないモノもあるのです。

 その時はなんとなく残しても、時間が経って記憶が薄れたころにさまざまな思い出と向き合いながら時間を過ごすと、その記憶がまた鮮明に呼び戻され、自分の性格や今の自分を形作ってきたモノ・コトがなんだったのか、やんわりと輪郭が見えてくるような気がするのです。10年越し、20年越しの答え合わせのような作業をすることが、私とモノとの関係性なのでしょう。

 後から言えることは、わたしが「あの時」これを残したのは「この気持ち」のためかと思わされることが多いということです。忘れかけそうな「あの時」の気持ちが、自分を生かし続けてくれているということ。思い返せば、自分の部屋を自分で作るようになった頃、実家を出て一人暮らしを始めた頃、都内でも引っ越しをした頃、南三陸に嫁いだ頃、こうして人生に行き詰って家でもがいている頃…人生のターニングポイントで、私はこれらのモノと向き合っています。

 その都度お別れをするモノも少しはいたりします。その場合は、同じような思い出や同じような答え合わせをしてくれるモノが追加された時かもしれないと感じています。しかし、何度向き合っても「こんなモノ」だけどまたその入れ物に戻す作業を繰り返しているモノがほとんどです。「わたしとモノ」の関係性は、こうして構築され続けている気がします。

□モノとわたしの思い出

 私は、比較的幼い頃の記憶が多く、そして深く残っているようです。というのも、幼少期の話をすると「よくそんなことまで覚えているね」と言われることが多くて、実際周りの人はほとんど覚えていなかったりもします。どうして記憶が残っているのかと考えると、やはり、モノとの関係性の中で記憶を無意識にでも何度も思い出しているからだと思うのです。当時のモノを残していなかったとしても、モノとの記憶は、それを彷彿させる代わりのモノを目の前にするだけで呼び戻されるようになります。

 もう一つは「モノ」にまつわる「ヒト」との思い出です。特に私の場合、母が私に買ってくれたモノを数多く残しています。実は、私が欲しいと言ったモノはあまり残しておらず、母が自発的に私に買い与えてくれたモノ、母が「これが似合う」と選んで買ってきたモノや遊ばせたいと買ったおもちゃ、幼いころに着せていた服などを多く残しているのです。(写真は幼稚園の頃から残っている思い出の入れ物たち)

幼少期からの思い出たち


 なぜだろうと思うと、それはきっと、母が私を愛していたという証として残したいからなのだろうと思うのです。それらのモノに込められた母の眼差し、想い、私のことを考えてくれた時間、そして私が受け取ることで2人の思い出となったあの時。何気ない「あの時」でさえ、時が経てば「思い出」に変わります。私の家族もさまざまなことがあってぶつかりも壊れかけもしたけれど、もしかしたら私たちを繋ぎ続けてくれた大きな要因に、私たちが家族として思い合った証であるモノの存在が大きいかもしれません。

□モノとの出会いと別れ

 日常的な消耗品やトレンドのものは別ですが、自らモノを選んで買う時は、実用性よりもそのモノと共に暮らす自分を思い描いて買います。彼(モノ)と私の暮らしがどのような彩りになって、どのような思い出になるのか。こう言うと大袈裟な比喩に聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはなくて、例えばお皿1つでも、そのお皿が家族に料理を提供する時に、私や家族をどんな気持ちにさせてくれるかイメージするのです。 

 あるいは、モノをもらった時は「何をもらったか」よりも「誰にもらったか」「どんなシチュエーションでもらったか」の方が明らかに印象に残ります。母や家族からもらったモノもそうですし、友人や先輩、恩師、恋人。一つ一つが私の生きた証になるヒトとの思い出です。(写真のぬいぐるみたちは人とのご縁で集まった思い出たちの一部)

思い出あるコレクション

 実は、今でも捨てられずにいるものに、ある缶コーヒーがあります。賞味期限はとっくに過ぎましたが、2017年に結婚した旦那のお母さんが初めて私にくれたモノです。当時まだ仮設住宅で、お付き合いを始めたばかりの頃にお邪魔して、これから東京に帰りますという時に持たせてくれた缶コーヒー。なんだかすごく印象に残っていて、大事に思ったら開けられなくて、いつか飲もうと思いながら今まで開けられずに来てしまいました。これも、こうなったらもうずっと思い出として捨てられず、かと言って飲むこともできず、開かずのコーヒーになるなと思います。ただ、この缶コーヒーを見るたびに、この日のことを思い出すことでしょう。

 結婚した旦那は、家族はみな無事だったものの、東日本大震災で家を流されてしまっています。私がモノとの思い出を話すとき、一緒に暮らすお母さんは「うちもとっておいていたけど、全部流れたからね」と、悔しいような、しかしどこか吹っ切れたような感じで話してくれます。もちろん、流れて良かったものなんて1つもなくて、悔しさや悲しさの方が絶大ですが「昔はいろいろ取っておいたけど、ああやって流されたから必要以上には残さない」という吹っ切れ方をして、前を向いて日々を歩んでいます。

 そんな2人の様子を見ていると、果たして私は、これまで共に自分の人生を歩んできたモノたちと突然の別れが訪れた時に、ちゃんと立って生きていけるだろうか、と不安な気持ちになります。写真じゃダメで、デジタルアーカイブじゃダメで、あの時、あの場で、あの手からこの手にやってきた思い出そのものじゃないと感じられないものって、ありますよね。その思い出たちとお別れする時は、どんな状況にせよ、きっと家族と分かれるような言葉にできない気持ちになるんだろうなと思います。

□モノと書きたい気持ちは繋がっている

 何年も見ていなかったのに、ふと手に取るとぶわっと記憶が蘇るモノ。それは、当時書いていた自分の文章です。友達に書いた手紙も、当時の手帳に書いたメモも、拙い論文も、真面目に書いた日記も、その一文字一文字を書いた時、あるいは打ち込んだ時のことを思い出すんですよね。

手帳

 あるいは、自分の文章じゃなくても、当時影響を受けたり感動した文章でも似たようことがあります。特に小説は、当時の友情や恋愛、家族などの人間関係を思い出して、胸がギュッと締め付けられるようなタイムスリップをすることもあります。アーティストの歌を聴いて当時を懐かしむのにも似ていますね。でもやっぱり、小説でも歌でも、ことばが私を思い出に引き合わせてくれているんです。

 だから私は、自分で自分の思い出の引き出しをたくさん作っておくために書いているのかなと思ったりします。その引き出しを引っ張るのがいつかは分からない。もしかしたら、死ぬ間際かもしれないし、生きている間ではなく、死んでから誰かが代わりに引っ張って見つけてくれるのかもしれない。それでも私は、自分の生きた証を確かめられるモノの1つとして、書くことをしているのだなと思いました。モノと私の関係性は、書くことと私の関係性と似ているのかもしれませんね。

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