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「キリコ」―変わりながらも、揺らがずに―

 私は「週末田舎探検部」という、約月1回開催の部活動を企画開催しています。主に、地域にいる達人から、産業や文化、技を学ぼうということが目的で、これまでにも藁細工、魚の捌き方、化石発掘などなど、さまざまに開催してきました。今月は、部員から「キリコ」をやってみたいという話が前々からあったため、上山八幡宮の禰宜である工藤真弓さんに先生をお願いし、キリコ体験をしてきました。今回は、その体験を通して知った、キリコの奥深さと文化の伝承についてのお話。

□「キリコ」の意味

 「キリコ」は漢字で「切子」と書きます。「子」という字は「コ」「シ」「ス」などの音で、「鳴子」(=鳴るもの)「扇子」(=扇のもの)などのように「~のもの」という意味を持つそうです。私は元々国文学を専攻し、国語教員の免許を取っていたもので、とても興味深く拝聴しました。Wikipediaの場合は「名詞接尾辞」としても説明がありましたし、わが家にあった漢和辞典を確認してみたところ「七 物の名の下に添え、口調をよくする語」とありました。日本語の成り立ちって、面白いですね。

中国語では元来ほとんどの語彙が単音節語だったのが、のちに接尾辞・接頭辞が発達した。「子」はもっとも多用される接尾辞のひとつである。日本語に入った経路・時期が複数あったため読み方は多様である。
Wikipedia
新明解漢和辞典

 つまり「切子」の場合は「切ってあるもの」という意味になります。よく「江戸切子」などで馴染みのある言葉だと思いますが、実際に切ってあるものを言うため、切子の柄、デザインをプリントしてある場合などは、厳密には「切子」ではなく「切子風」なんです。当たり前に使っている言葉も、漢字の意味や文法を改めて理解すると、ものの理解も変わっていきますね。

□「伝承キリコ」の文化

 今回私たちが部活の中で学んだ「キリコ」は、南三陸町だけの文化ではなく、古くからさまざまな地域にある文化で、主に神社などで地域毎に継承されてきた文化ですが、山伏の山岳信仰の修行の中で生まれたとされています。山伏が、修行中に紙を切ってみたところ、紙垂(しで)と呼ばれる雷の形が生まれ、木に括り付けるとゆらゆらと揺れて神様の気配を感じられたということから、神様を身近に感じられる「依り代(よりしろ)」として、大切にされるようになっていきました。

 今でも、紙垂は神社の鳥居や参拝する場所などに、しめ縄に付いた状態でかけられていますよね。あれは、神様のいる側と私たちの世界の境界線を示す「結界(けっかい)」の意味があります。音では強い境界線を表すような印象を受けますが、漢字が示す通り、あちらとこちらを「結ぶ」ところなんです。真弓さんは「紙垂が揺れて、あちらとこちらを行ったり来たりする、ゆるやかに交じり合うところなので、それを意識して通ると、これまでと感じ方が変わると思いますよ」とお話してくださいました。

 以降、紙が普及していく中で、形を変えながらもその時その時の「依り代」として、さまざまな意味を持って各地に発展していきました。その中に、お正月に向けて神様にお供えする「御飾り(おかざり)」、神様のお召し物として切紙を串に挟む「御幣束(おへいそく・おへそく)」、大漁祈願などで特に三陸沿岸地域に見られる「鯛飾り」などがあります。今でも知られている「切り紙」「切り絵」「切子模様」などは、それらがさらに創作の遊び・文化として発展したものだそうです。

伝承キリコの説明(上山八幡宮)

 そして、御幣束は全国各地の神社などで継承されていますが、鯛飾りはやはり海沿いの地域にのみ、特に三陸沿岸地域に色濃く残っている文化で、御飾りも現代はされていないところが多い中、三陸沿岸部には強く残っているとのことです。その要因としては、神社などで継承されていく中でも、なかなかそういう手作業が苦手な代で辞めてしまったり、違う形で神様にお供えするところも出てきた中、この三陸沿岸部は何度も津波などの大災害を受ける地であったこと、また、東北という地で冷害を受け飢饉となった歴史もあることなどが考えられます。

 神様にお供えできる食料やお酒がない時でも、キリコとしてせめて気持ちだけでもお供えをして「来年は本物のお供えをできるように」と自らを鼓舞し、見守っていただけるよう祈る想いもあったということ。もちろん、キリコがなくてもお供えができる年も多々ありましたが、いざという時にこういう文化があることによって、神様への祈りを途絶えさせずに過ごしてこられたということ。そういう、地域の「生きる力」が込められているのが、この地域の伝承キリコなのでしょう。

□御飾りに込められている物語

 南三陸町の上山八幡宮の御飾りは、次のように右から、お餅、お酒、知恵袋が「三方(さんぽう・さんぼう)」という台に載っている型となっています。三方とは、神事の際に神饌(しんせん)を載せるための台で、檜などの素木(しらき)で造られるのが主です。台の三方向に穴があるのですが、中にはひょうたんによく似た形の穴のものも見ます。しかし、こちらはひょうたんではなく「宝珠(ほうじゅ)」を模っているのだそうですよ。そして、三方に載せられているそれぞれのお供え物は、それぞれの神様に基いて決められたものだということを知りました。

お正月の御飾りの説明(上山八幡宮)

 まず「大年神(おおとしのかみ)」に紐づくお餅のキリコですが、ここで言う「年」とは稲の実りの周期を基準にしているのだそうです。そのため、その年の稲の豊穣を祈るというためにその年に収穫したお米で搗いたお餅をお供えするのだと言います。

 次に「大國主神(おおくにぬしのかみ)」に紐づくお酒のキリコですが、大國主神は、須佐之男命(すさのおのみこと)の子孫で、出雲に大国を作った国づくりの神様とされています。こちらも、その地の平和や安定を祈る意味で、大地の恵みの稲から造られるお酒をお供えするのだそう。ちなみに、八十人いる兄弟の中の末っ子だったそうで、お兄さんたちの荷物が入った大きな袋をいつも持たされていたそうです。しかし、その袋の中身は苦労したり、他に施しをしたりするたび、知恵に置き換わっていって、いつしかその袋は、医薬や農耕、養蚕など、国造りなどの知恵袋に変っていったそうです。また、キリコの知恵袋の中には、さらに五穀の種子が入っていると伝えられています。大國主神には、鮫に毛皮を剥ぎ取られて怪我して泣いているうさぎに治す方法を教えてあげて助けたという「因幡の白兎」という有名な神話があります。

 そして最後に「事代主神(ことしろぬしのかみ)」に紐づく知恵袋のキリコ。「あれ?知恵袋と言ったら大國主神じゃないの?」と思いがちですが、実は大國主神と事代主神は親子なんですね。父親の大國主神に代わって国を治める際に、父から子へ、そのために必要な知恵袋が託された、ということでしょうか。そのため、知恵袋がお供えされています。

 余談ですが、大國主神と事代主神は、その見た目からも、ある神様と重なりませんか?そうです、七福神(しちふくじん)の中に出てくる大黒様と恵比寿様です。大黒様も大きな袋を持っていますし、恵比寿様は鯛を持っていますよね。そして、大黒様と恵比寿様は親子です。しかし、これは元々別の神様だったそうで、大黒様はインドで生まれた神様なものの、音が「大國」と「大黒」で重なることから習俗の中で同一視されるようになったということです。その中で、恵比寿様も重なって見えるようになっていったのでしょうね。

七福神、右端が恵比寿天、その左が大黒天

 このように、何気なく年末年始に神社からいただいてせかせかと準備する御神像や御飾りですが、深掘りすると古事記に基く伝承や私たちの生活に欠かせないものを表す深い物語、そしてそれを依り代に先祖代々が守ってきた地域への想いが込められているのです。よく知りもせず形だけやっていたことを反省しました・・・。

□形を変えながらも、揺らがずに伝承する

 さて、お正月に向けて神様にお供えする御飾りは、同じ南三陸町でも、志津川には志津川の絵柄、入谷には入谷の絵柄・・・というように、町内各地で絵柄が異なります。この絵柄のことを「型」と呼び、各神社でその方が継承されていくのだそうです。実際に、町内唯一の内陸地であり、農業や畜産業が主での入谷地区にあるお宅では、牛が模られたキリコを見たことがありました。

キリコの鯛飾り

 御飾り以外にも、鯛飾りなども型が継承されているとのことですが、現在の宮司は、先代の宮司の手元を見ながら鯛飾りの型を習得したそうです。その上で、今後も継承できるようにと、今では型の台紙を作られたとのこと。これまで台紙無しで継承されてきたとは、凄いことですよね。一方で、真弓さんからは、次のようなお話もありました。

ぜひ、皆さんにもこの「キリコ」に込められた意味などを知ってもらい、受け継いでいって欲しいという思いがあります。
でも、だからと言って、ただキリコの絵柄が普及すれば良いということではなく、一つ一つ、多少うまくいかないことがあっても祈りを込めて手作業で作ることに意味があり、その時できたそのキリコが、今のその作り手を表しているのだということ、この作業に想いを馳せて集中することに意味があるとも思っています。
そして、ゆらゆらと揺れて、神様を感じることができる依り代として大事にしてきたということもこの文化の一つ。
なので、ただ普及のために「デザイン」として活用していくのではなく、あくまでも本来の意味を大事に伝えていきたい、伝えていって欲しいと思っています。

 昨今のコロナ禍で、疫病封じの妖怪とされるアマビエが有名になりましたが、上山八幡宮ではアマビエのキリコも作ってくださいました。このように、その時代毎に必要とされる祈りに合わせながら形を変えること、継承することを最優先に型の台紙を作ることなど変化は伴って行っても、キリコに込められた想いやキリコを取り巻く文化そのものは決して揺らがせることなく、芯を持って伝承していくということが、最も真弓さんはじめ神社で大事にされていることなのだと感じました。そして、それを受けて私たちも、書き記すことや語り継ぐことで正しく文化が継承されるよう貢献したいと思い、こうして認める次第です。

□「ない」のに「ある」

 最後に、真弓さんが仰いました。

キリコと向き合いながら考えたことがあります。
この和紙一枚を見ても、まっさらな何もしていない状態が究極の「ある」だと思うんですね。
でも、この「ない(切り抜いた)」部分があることによって、この絵柄が浮き上がり、「ある」ことの有難さを教えていただける。
そう考えると、私たちはあることでのみ生かされているのではなく、無くしたり、奪われたり、失ったり、見落としたり・・・そういった「ない」ことによって強くなり、浮かび上がってくることもあるのだなあと、この一枚のキリコからも学べるように思います。

 偶然にも、私はまちづくりの仕事に就き始めた頃、その道の先輩で、今では共に仕事をする仲間にもなっている方の「ないのに、ある」という言葉に感銘を受けた経験がありました。彼の言う「ないのに、ある」は、目には見えなくても、形は無くても、あるいは何か失ってしまっていても、その地の持つ思い出、文化、縁などが「ある」ことが大事だということを意味しています。逆を言えば「あるのに、ない」ではいけない、つまり、形はあるものの、中身がないようなまちづくりはしてはいけないということも意味しています。まちづくりにおける「ないのに、ある」を実現するためにも、そのまちづくりの要素の一つである文化そのものも「あるのに、ない」になってはいけないですね。

 真弓さんの楽しいお話で、時折クイズ形式も交えながら教えていただき、とっても楽しく体験させていただいたキリコ体験でしたが、とっても多くの学びや気付きも与えていただいた体験となりました。ありがとうございました。


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