どこへ越しても住みにくい

すっかり肌寒くなってきた。夕方16時ぐらいに水彩絵の具で描いたような雲の流れを眺めて、こんなにゆったりと夕方の空を見つめたのは何年ぶりだろうと思う。

フリーになってしばらく経った。とにかく人と話すことが減り、夫以外とは誰とも話さず引きこもるという日々が続く(たまには外出するが)。大爆笑することもなければ、誰かに失望したり憤怒したりすることもなく(逆もしかり)、心は静かな海のよう。いよいよ俗世と隔絶された感があり、これが私の求めた世界のはずなのに寂しいのはなぜだろう?

YouTubeではキラキラしたフリーランサーが旅するように仕事している姿を見て、すぐにこうなれるとは思っていなかったものの、憧れを抱いた。けれど、実際は家のWi-Fiが一番良くてカフェでなんて仕事しないし、休日という概念もどこかに行き、止まれば倒れる自転車のごとく、文字を生産し続ける日々だ。まあ休日をベースとしてその上に仕事があるから、「休みがない」「もっと休ませて」という感情は無くなったけれど。

結局のところ私はどこへ行っても何をしていても完全に心を満たすことは難しい。学生時代からそうだったが、楽しいはずなのだけれど、いつもどこか満たされていない感情になり、新たな刺激を常に求めていた。結局どんな環境も労働スタイルも一長一短で、完璧に自分にフィットするなんてことはないのだ。夏目漱石大先生の言葉を借りれば、「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて画ができる。」この生き辛さも芸の肥やしか。

好きな小説家の一人にかの有名な江戸川乱歩がいる。乱歩好きは私のペンネームの由来の1つでもあるのだが、それはここでは置いておこう。

乱歩は生涯に46回引っ越したらしい。この人の言葉で有名なのが「うつし世は夢。夜の夢こそまこと。」昼間の現実こそが幻想に過ぎず、本当の人生の舞台は夜の夢、つまり「自分の憧れとか精神レベルで実現したい夢」(意訳)である。

「この世はただの仮の住まい」という古典の仏教観にも通ずる。乱歩は結局職業も転々としてラーメン屋なんかで働いていたこともあったらしい。結婚は我が地元三重県の島で小学校の先生をしていた女性と本の読み聞かせ教室で出会ったということだから、なんだか他人とは思えない乱歩先生。

このような考え方には「結局どこへ行っても満たされることはない。」というある種の絶望感が根底に流れているように見えるが、そうではない。むしろ、「どこへ行ってもそれなりに生きられる。大切なのはあるがまま。」という希望の光を見出したい。



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