【2019/08/04】ノンストップ・ライティング2(フィクション/六井今日子)

あの人のことは今になっても時々思い出す。思い出せるってことは、あの人は今でもぼくのなかで死んじゃいないってことだろう。
誰も居ない教室、傾いた陽の入り込む、窓際のきみ。退屈そうに揺れた長い脚と、手元に収まったちいさな音楽プレーヤーと、入り込む風に揺れるきみの長い髪。その日はきっと、たしか、後ろに結われていたと思う。でも、なんだかはっきりとは思い出せない。こうしてぼくの記憶から勝手にいなくなるんだ、きみという人は。
「あ」
ぼくはきみのななめうしろの席で、その日は忘れ物をとりに教室に戻ったところだった。きみにはきづかれないようにしようと思っていたのに、椅子を引いたときに思ったより大きな音を立ててしまい、きみがふりむいたのでぼくは驚いた。
ぼくはほとんどきみと話したことがなかったし、教室で異性とふたりきりなんて気まずい以外の何ものでもないし、ぼくはそこから動けなくなって、ただきみの顔を見てしまった。おもっていたより睫毛が長かったように思う。
「どうしたの」
きみが話しかけてきたので、ぼくは思わず後ずさりしたんだけど、ぼくのななめ後ろの机の角に尻をぶつけてしまい、いっ、ああ、えっと、となさけない声をだすしかできなかった。ぼくはまったくちいさなリスにでもなって穴の中に逃げ出したかった。あまり話したことがないからって緊張なんてしてないで、もっと気の利いた返しができていればよかったなと、いまになって思う。
「今ね、待ってるの、音楽聴きながら」
彼女はぼくがなにもきいていないのに、彼女の話を始めた。
「二組のマサキって、しってる?」
「二組の?あ、ああ…」
ぼくは彼女がどのマサキのことを言っているのかわからなかったが、なんとなくのあいづちを打った。マサキとは、名字だったのか、下の名前だったのか、今でもわからない。わかっていたら、ぼくは後に彼をなけなしのちからで激しい怒りにまかせ殴りにいっていたかも知れなかった。彼女がいなくなっても、マサキとは一体だれだったのか、怖くて知ることはできなかった。
「ボーカルがね、彼に似ているの。マサキに。わたし、マサキと付き合ってたんだけど、このあと、別れるんだ」
音楽プレイヤーに表示されたバンドは僕でも知っていたし、家にCDもあるほどだった。若者に人気で、携帯のCMなんかにも起用されているような流行のロックバンドだ。
ぼくは好きなCD屋さんにでかけてこのバンドの曲が流れていたら、いまでも胸がざわっとしてしまう。ボーカルがどんな顔だったか、忘れてしまったし、知りたくもない。
「マサキ、浮気してたの。最低だよね」
「えっ、それは、…ひどいね」
「そう、ひどいの、ほんと、やになっちゃう」
彼女はそう言うと、全然しらないぼくの前で、きれいにひとすじ、涙を流して見せた。それは涙の完全体だった。瞳のなかが湖みたいに澄んでいて、これがほんとうの絶望なんだと思った。ほくにはそのころ恋人なんていたことはなかったけど、にくしみやせつなさなんかのこころのすべてを、彼女はそこに暗くうつくしく保っていた。彼女はきっとただの女子高生だった。ただの女子高生だったからこそ、きっとマサキは彼女の全てだった。さめざめとした絶望は、あとからあとから、陶器のような頬をすべり落ちた。
それからぼくはなんと返事をし、どうやって家に帰ったか、忘れ物は持ち帰れたのか、何も覚えていない。
あとから知ったことだが、彼女はその日、屋上から飛び降りた。ぼくはそれを知った日、あのロックバンドのCDを燃やした。

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