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女性が会社で普通に働く。その当たり前まであまりに遠い道のりでした。


「女性が会社で普通に働くだけでも、大変でした」

彼女は銀座の中華レストランでそう言った。

1985年、男女雇用機会均等法が出来た。その法律を適用される新卒女子として彼女(「K.ゆり子」としておこう)は僕がいた博報堂にやってきた。男女で雇用が違う、給料が違う、待遇が違う、昇進速度が違う、福利厚生が違う時代だった。その法律はそれを是正しようと、MUSTではなく努力規定として施行された。

ゆり子は新人コピーライターとしてやってきた。なぜか彼女が僕のいた制作局に初めて出勤した瞬間を覚えている。朝の9時過ぎだ。

いくつかある制作局の一つの扉の前に立ち、大きく深呼吸をして、意を決して、大きな声で「おはようございます!」と言った。
朝の制作局は閑散としていたが、それでもその声が大きく聞こえたのか、何人かの男性が彼女の方を見た。紺のスーツで立っていた彼女は、何秒間か緊張でぎごちなく固まり、照れたように少し笑っていた。そして未知の制作室の中に入った。それからどうしたか、僕は覚えていない。僕自身も彼女を見るのをやめてしまったのだろう。

当時、女性は一般職採用だった。一般職は事務業務、サポート業務がメインだったが、博報堂ではCM企画をやっている女性クリエイターも少人数いた。ただ、彼女たちも総合職ではなかった。つまり男性との格差をつけられた雇用形態でありながら、編集スタジオで朝まで働いたり、プレゼン準備で深夜までコンテを作っていたのだ。

社員の女性コピーライターは一人もいなかった記憶がある。いたのかもしれない、しかし思い出せない。誰かが当時、ゆり子のことを「博報堂始まって以来の女性社員コピーライター」と言っていたことをかすかに覚えている。

衝撃的だった。数週間経った頃だ。

ゆり子のトレイナーのDさんが僕の席にやってきた。Dさんは業界を代表するコピーライターで誠実な人だった。何人かの男子コピーライターを育てていた。
「黒澤、お願いがあるんだけど」「何ですか」「Kさんのトレーナーやってんだけど、なんかうまく育てている気がしないんだよ」

隣の席に座って、ボサボサの頭をかきむしる。「一度も女性のコピーライターを育てたことがないからかもなぁ。俺の言ってることのピントがずれている気もしてさ。ちょっと悩んでいる・・・」

そしてDさんはこう言った。「黒澤に彼女を見て欲しいんだ」

「そりゃないですよ」と返そうと思ったが、なぜか僕は沈黙した。無茶ぶりに呆気にとられ、心が真空状態になっていたのかもしれない。返事をしないのはイエスと同じ、の時代だったから、僕は降って湧いたように、新人コピーライターのトレーナーになった。歴史上初の法律を適用された女子社員を預かることになったのだった。僕は30歳、彼女は22歳。大げさに言えば、まだ見ぬ「働く世界」への旅立ちだった。

ゆり子はコピーが上手かった。センスが良かった。真面目な性格だが、書くコピーには「やんちゃ」なところがあり「切れ」があった。不思議なことに彼女のコピーには、女性の香りがあまりしなかった。言われたことはきちんとやってきたし、明日まで100本コピー!という荒業にも耐えた。

毎日、僕らはともに行動をした。オフィス時間はほとんど、仕事後はたまに深夜まで六本木や銀座の行きつけバーに付き合ってくれた。嫌な顔ひとつしなかった。そこでいろいろ広告の話やコピーの話に熱中した。先輩連中が、バーに乱入してくることもあり、広告談義はとめどなく盛り上がった。

やがて彼女を指名する仕事も増えてきて、トレーナートレーニーの関係は薄くなっていった。実戦が始まれば、もう教えることはなくなっていくのだ。廊下でたまに会うと「元気かい?」「元気ですよ! のんでますか?」という類の会話が交わされたりもした。

何年か後に、彼女は東京コピーライターズクラブ(TCC)の新人賞を獲った。社内の人気コピーライターの一人になった。入社3、4年後だろうか、大学時代から付き合っていた恋人とゴールインした。しばらくして彼の赴任先がNYになった時は、散々迷っていたが、ついていくことに決めた。

「今の仕事を手放すのも涙が出るほど悔しいし、黒澤さんに教えてもらったことを捨ててしまうのも残念でたまらないんです・・・いろいろ迷ったんですけど・・・残念ですけど・・・」

そんなふうにうつむきながら彼女はNY行きを僕に語った。今なら、オンラインで得意先と打ち合わせをしながら、コピーライターを続けられたかもしれない。しかし、当時はインターネットなどなかった。
夫について地方や海外に行く=今の仕事を捨てる、時代だったのだ。彼女は、コピーライターを辞め、書くことも辞めた。

こうしてゆり子は、僕の視界から完全に消えて行った。

長い年月が経った。

あれからもう30年が経っていた。僕は博報堂から独立して、新たに事務所をつくっていた。仕事は広告業務、企画業務が主なものだった。そんな僕に、あるプロダクションから、某企業のPR誌があって、そこに連載記事を書く仕事をやらないかと打診があった。
・・・日本の美術館を紹介するコラムで、美術館との交渉もできて、記事が書けて、キャッチコピーも書ける人いませんか。もちろん黒澤さんが書いてもいいんですけど。美術とかに造詣があって、知的な人いませんか。

その時、ふと、遠い記憶のはるか奥にいる女性のことを思い出した。今でもその感覚はうまく説明ができないのだけれど、僕はただ一人の女性だけを思い出した。

僕はゆり子の連絡先を探した。そう言えば何年か前に、311の翌年くらいに「うちのマンションが傾いてしまいました・・・」と書かれた年賀状が来ていた。捨ててしまったかもしれないと思いながらも、部屋のあちこちを探しした。「もう子供も大きくなり、すっかりおばあちゃんになりました」。そんなことも書かれていたような気もした。

年賀状はあった。メルアドが書かれていた。僕はすぐに連絡を取った。返信もすぐに来た。

黒澤さんと初めてメールでやりとりしましたね。本当に本当に本当にお久しぶりです。メールが来た時、びっくりしてしまいました。懐かしかった。そして、すごく嬉しかった・・・もうコピーは長いこと書いていません。お仕事を受けられる自信がありません。ちょっと考えてみてもいいですか。なるべく早くお返事します・・・

僕は待つことにした。他の仕事も数多くあり、その美術館探訪のコラム仕事は頭の片隅に追いやられていった。3日後くらいに返信が来て、そこにはこんなふうに書かれてあった。

「・・・自信はないのですが、やってみようと思いました。これはじぶんを変えるチャンスなんだ、もう1回、初めてコピーを書いた頃の気持ちに戻ってやってみよう。そんな前を向く気持ちになりました。ありがとうございました。運命ってあるんですね、初めてコピーを教えてもらった方と何十年も経ってまたお仕事ができるなんて。下手な文章やキャッチを書いたら遠慮なく叱ってください。よろしくお願いします・・・」

彼女は長いブランクのせいか、初めはライティングに時間がかかった。しかし、2、3回目の連載から、すぐに昔の彼女を取り戻した。腕は衰えてなかったのだ。博報堂のクリエイターとして厳しい切磋琢磨を重ねた技術は、経年劣化していないのだった。「鍛えが違う」。そんな言葉を僕は彼女の原稿を見ながら呟いた。

仕事が慣れた頃、銀座でランチをした。当然のように昔話に花が咲く状態になって、君は男女雇用機会均等法が施行されて初めての女子社員だったんだよなあ、という話になると彼女は箸を置いて、僕を真直ぐに見てこう言った。

「前に誰も歩いてない道を歩くのは、本当に辛かったです。わかりますか、じぶんがみんなに注視されながら、毎日一人でその道を歩く気持ちを」

ああ、気がつかなかった、と僕は感じた。彼女のあの頃の気持ちを深く感じ取ることができなかったのだ。
女性が、自由にじぶんらしく、差別されることなく正当に働く。その地図のない新しい世界に、古い慣習の風が猛烈に吹いてくるなかを、時に思わぬ泥沼にはまりながら、必死に歩き出した彼女の思い。それを感じ取ることができなかった。

まだ不十分とは言え、女性が社会で活躍することが普通になった今。彼女のような、未開拓の原野を耕しながら進んで行った人のことを忘れてはいけないと思った。

紺のスーツを着た一人の新人女性コピーライターが大きな声を上げている。まだ入ったことのない未知の部屋に向かって。「おはようございます!」。そして、部屋の中に力強く入っていく。

(おわり)







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