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豊嶋康子 発生法 天地左右の裏表/東京都現代美術館 前編


2月末に東京都現代美術館に行きました。現代美術については知識がなく、避けてきた分野でした。しかし、近いうちに主要な都内の国立・都立の博物館、美術館を制覇しようと思い立ち、現代美術館にも行ってみることにしました(残すは国立西洋美術館、国立近代美術館、あと東京国立博物館には何度も行っているのに、平成館、法隆寺宝物館、黒田記念館に入ったことがありません)。以外、展示を見た感想です。


豊嶋康子 発生法 天地左右の裏表

今回一番初めに鑑賞しました。以下は印象に残った作品3つです。

・復元
陶器のひと欠片から、その全体像を想像して作られたお椀が並んでいました。以前、埴輪か土器かの展示を見た際、かなりの大部分が復元によって形成されているものを見て「本当にこうだったのか?現代人の創作になっていないか?」と可笑しく思ったことを思い出しました。

・定規
プラバンのように熱することで歪められた種々の定規が並んでいました。普段生活していると絶対的に思えることが、こんなに簡単に歪んでしまうのです。子供の頃、センチやグラムなどの単位は、誰かが決めたことなのだと知ったとき、ものすごく奇妙な感じがしたことを思い出しました。単位のことを、絶対的な自然の法則のように感じていましたし、そんな大事なことをただの人間である誰かが勝手に決めたということ、それが万国共通で使用されているということに驚いたのだと思います。その違和感は、やはり間違ってはいないのです。

・発生法2(通知表)
豊嶋さんの小学校から高校までの通知表が並べられていました。他人の通知表をまじまじと見たことがなかったので、ついしげしげと読んでしまいました。小学校のころ、成績がいいわけでもないのに、自分の通知表を見ることが結構好きだったことを思い出しました。自分がどのような人間であるかを言葉にしてもらうことで、自分自身が確立されるような感覚がしたからだと思います。この作品も、外側から自分自身を評価されるシステムや、それによって鑑賞者が各々に豊嶋さん像を想像してしまうことのおかしみを表現しているのかなと思います。


正直、よくわからないな〜というものもたくさんありましたが、こうして印象に残った作品を思い返してみると、どれも自分の記憶が掘り起こされるものでした。身近なものを素材としているからこそ、きっと鑑賞者それぞれに刺さる作品があるのかなと思います。

豊嶋さんのインタビューを読んでみると、どのような経緯でこうした作品群を生み出してきたのかが少し見え、面白かったです。



わからないものを無理にわかろうとしなくていい、素直に好きだと思うものを見つければいいと、1月に山種美術館に行った際に考えましたが、やはりわかりたいという気持ちもあります。若冲の布袋図がわからないという気持ちと、豊嶋さんの作品がわからないという気持ちは、少し質が違うような気がします。造形と、コンセプトのどちらに比重があるのかということも、わかる・わからないという枠組みでの理解が意味を成すのかどうかに関わると思います。私は絵という造形物が単に好きなので、絵を好きか嫌いかで語ることにあまり抵抗がありませんが、現代美術をこのように見ることは今のところできません。また、時代の違いもあるかなと思います。同時代を生きる美術家であり、同じ歴史の上に立つ人が考えたものは、私にも無関係ではないのではないか、私はきっとこれをわかるのではないか、という予感があるのです。


他の展示については後日書こうと思います。

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