見出し画像

美藝公ーユートピアとディストピア

篠山紀信の「激写」というタイトルでも知られる“ナイスな”グラビアが目印だった雑誌「GORO」(創刊1974年/休刊1992年)。1980年にその誌上で連載されていた筒井康隆さんの小説「美藝公(びげいこう)」を、突然、読んでみたくなりました。およそ40年前の作品です。

映画が日本を代表する産業となり、政治経済をはじめとする凡ゆる社会事象に影響を与えている社会を舞台としています。そして、その中心となる大スター(小説中は「スタア」と表記されます)の称号が「美藝公」です。物語は、その美藝公の映画作品を手がける脚本家の「おれ」を主人公として展開します。

ワタシ、実は当時、この作品を読んだことはありませんでした。筒井さんの作品は、短編から長編までだいたい網羅していましたが、何故か、この「美藝公」だけは手に取ったことがありません。思い返せば、「美藝公」という設定が、気を惹かなかったように感じます。
最近、筒井さんの作品「旅のラゴス」や「残像に口紅を」がネットを介して、若い世代に読まれているという記事に触発されたわけでもないのですが、突然、この「美藝公」を読んでみたくなりました。買ったのはkindle版です。

ネタバレのためにこれを書いているのではないので、中身について詳しくは述べません。ワタシが一番、驚き、面白いと思ったのが、後半の新しい映画作品のためのブレインストーミングの場面。もし日本が映画立国ではなく、経済立国として太平洋戦争戦後の成長を遂げていたら、現代社会はどうなっていたかを想像する場面の鮮やかさです。
ユートピア(理想郷)である映画立国の日本に暮らす主人公たちが、“想像の”経済立国・日本のディストピア(暗黒郷)ぶりに恐怖するのです。しかし、2021年にそれを読む自分が、そのディストピアぶりが今の日本の状況にとてもよく似ていることに驚きました。1980年当時は、テレビの隆盛に対するアンチテーゼであったと思いますが、それはこのインターネット隆盛期に、もっと心に迫るものがありました。

このあたりの連想は、映画「アメリカン・ユートピア」を観たことが影響しているのかもしれません。パンクまたはポスト・パンクバンドと言われる音楽ジャンルのバンド、トーキング・ヘッズを覚えていますか。そのバンドのリーダー、デビット・バーンが2018年に発表したアルバムをミュージカルとして再構成した舞台を、これまたDo The Right Thing=スパイク・リーが映画化しました。
デビット・バーンが毎度のグレーの(というか色の無い)スーツで、その3つボタンをきっちりととめた姿で、歌い、踊ります。この衣装のミニマル感が素敵です。演奏のサポートメンバーも、素晴らしい芸達者。懐かしいヒット曲も登場する、およそ100分の舞台です。映画は、舞台をライブのように収録したものではなく、4日間の舞台を収録して、1日の舞台のようにまとめたとのことです。(映画の説明文を検索すると、政治的な文章を避けるために、すこし遠回りな説明文が発見されますが、中身はもっとストレートなメッセージで溢れています。)
原題の「Devid Byrne’s AMERICAN UTOPIA」の通り、デビット・バーンがアメリカ的なユートピアとは何かと、選挙(投票)や人種問題を取り込んだ音楽劇の中で、問いかけています。

思い起こせば、2018年の第91回アカデミー賞の受賞式で、スパイク・リーが監督&脚本を手がけた「ブラック・クランズマン」が脚本賞を受賞。プレゼンターであったサミュエル・L ・ジャクソンが、受賞者の名前の書かれた封筒を開けて、思わず小さく叫んでから、口を抑えたのです。「やった!」と言ってしまったからでした。いつまでも人種問題が無くならないアメリカ社会に疑義を突きつける映画を撮っているスパイク・リーの関わりが、映画への印象を強くします。

「ユートピア」の対義語は「ディストピア」です。反対の概念があるからこそ、それを目指すまたは忌避する、という行為や意志がはっきりするのだと思います。
では、最近よく見かける「分断」という言葉の対義語は何でしょう。「分断されている」という状況が“良くない”状況なら、どのような言葉で表現される状況が“良い”状況なのでしょうか。
ワタシは今の「分断」という言葉には対義語が無い、無いものねだりのような印象を覚えることがあります。「分断」という言葉を使う記事や文章は、その状況を煽って、当事者を貶めているように感じます。

筒井康隆「美藝公」をきっかけに、さまざま思いを巡らせました。やはり、新しい
本に出会う喜びを忘れられない。「七瀬ふたたび」ならぬ、筒井康隆ふたたび、でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?