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長続き on-going forever

継続は力である。継続することによってプラスの実績が解除されることもあれば、マイナスの実績が解除されることもある。例えば、文章をこのように書き続ければ、より多くの文章や高品質な文章を短納期で仕上げるようなことができるようになるかもしれない。言わば練習量に担保されて品質を挙げることができるかもしれない。一方、漫然と書き続けることだけがクセになり、決めた字数を埋めることだけが惰性になれば、あたかも何十年も何十万字も手書きで漢字を書いていても一向にうまくならないように、文章も低品質なままか、もしくは何の構造も構成も持たないまま長々と何が言いたいかわからない文章を量産できるようになるだけかもしれない。

だから、ただ大量に反復するための習慣を獲得するだけでもたいへんなことではあるのだが、単に反復するのではなく意図やねらいを持った反復でなければならないだろう。例えば、文字を書くときにひらがなの閉じられた丸い部分を大きくしたり、漢字の「口」のような四角い部分を大きくハッキリ書くことを意識するだけでも、文字の読みやすさが向上したり、手書き文字全体への統一感が出るであろう(あなたがいわゆる丸文字が好きかどうかはともかく)。体調や情緒の安定を基礎として反復ができるようになったら、次はそれを数えること、そして個別の実践の品質を評価する(最初はマルかペケかだけかでもまったく十分だろう)ことである。

大量の反復練習について考えるとき、私がいつも思い出すのは下記の記事である。この記事では或る研究者(故・木村泉氏)が折り紙を15万回折って、一回あたりにかかった時間をグラフに記録している。

木村氏は、吉澤章氏の「創作折り紙」という本で紹介されている「みそさざい」という作品を15万回折り続け、折るのにかかった時間がどのように変化したかを記録しました。折るのに要した時間を縦軸に/試行回数を横軸にして両対数グラフを描いた結果として以下の図が報告されています。

「練習の効果」

実験のためとはいえ、15万回も同じ折り紙を手で折るのは気の遠くなるような話だ。まったくスコアに変化がない時期も何度も経験したであろうことは想像に難(かた)くない。

ただ、15万回折った結果初めて出し得るハイスコアがあることも事実であろう。ここで不思議なのは、そのようなハイスコアを出すためにはやはり15万回の最初の1回から最後の1回までショートカットはできなかった、ということである。15万回の最初の数回もどこかに「記憶」されて、最後の数回のハイスコアに本当に微力ではあるが貢献しているはずである。なぜならば、そうでなかったとしたら、最後の数回の練習だけでハイスコアに到達できるやり方がどこかにあるはずだからである。だから、我々の身体は何かの実技を憶えるときに脳細胞のカタチやつながりの変化という意味の「記憶」ではないかもしれないが、筋肉の形や指の可動域のようなかたちで何万回もの反復を身体に記憶させているに違いない、と思うようになった。だから、私がここに書き綴っている文章も過去に考えたことをなぞっているだけのようだと自分では思うし、焼き直しで退屈だと思わなくもないのだが、最終的な「ハイスコア」に到達するための捨て石のような素振りのひとつであると思って書き続けているというわけだ。

(1,368字、2024.02.02)

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