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死ぬのは怖い I'm afraid of my death

私は死ぬのが怖い。なぜか? なぜかはわからない。まあ、もっともらしいというか共有しやすい理由を挙げることはできるよ。(1)死に至る経路で苦しむだろうとか、(2)今まで築き上げたものや親しい人たちとのつながりが無くなることが悲しいとか。あるいは(3)何か根本的な変化は死ぬことも含めてなんでも怖いのだ、とか。

ただ、これらの理由で、あるいは説明でその怖さが言い尽くされたとは到底思えない。元来「怖さ」とはそういうものかもしれない。表現し尽くせるようなら、それはもう怖がってはいないのだろう。それに近づいて描写できるならそれ相当に気力を使うし、もはや恐怖の一部は克服されているのだろう。

もし死んだら(1)無に帰すというならそれはそれで怖いし、(2)何かに生まれ変わってまた意識を持って生きるというのならそれも怖い。私は無に帰すことも十分あり得ると考える一方、生まれ変わりを私はあまり否定する気にはなれない。なぜならば、私自身が物心(ものごころ)着く前に何であったかを思い出せないからだ。したがって、私が死んだ後に私が私として再度物心(ものごころ)着くという可能性を私はあり得ることだと捉えている。

私は私に生まれて幸運だった。なぜならば、もっと恵まれない家庭に生まれる可能性、いじめられて育つ可能性、身体が不自由になる可能性、とにかくもっと惨めで酷い人生になる可能性はいくらでもあっただろうから。もちろんすべてに満足してはいないし、私なりの不幸もあったし、申し訳の立たないことや人に迷惑や心無い仕打ちをしたこともあった。情けない。私の無能と意気地なしが招いたことについては、もう、ただただ自分が情けないと思うしかできない。もっとも、そのような弱気なところ、意気地がないところ、人を愛せないところも含めて私に与えられた資質であったり限界であったりするのかもしれない。もしそうならそれを受け入れて生きたほうがきっと安心して、期待せず、ぬか喜びせずに生きられるのだろう。だが、そんな仮定が証明されることもないだろうから、人生はずっと宙吊りのままだ。それでも、こういうことを言葉を並べて考えられる余裕がある人生は毎日飢える人生よりずっとマシだし、実際飢えている人、戦火の中で怯えて暮らす人々、虐待や暴行を毎日受け続けている人は地球上にも日本列島にも実在するだろう。

これから生きていてもそうなる可能性はあるけれど、死んで生まれ変わったらもっとどうなるかわからない。そういう不安の詰まったパッケージが「死」なのである。だから、現在の肉体の延長で、現在の健康状態の延長で健康寿命が延びてくれるならそれに越したことはない。健康寿命を伸ばすテクノロジーや再生医療やナノテクノロジーによる治療やパーソナライズド医療には大きな期待をかけている。

(1,156字、2024.03.11)

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