見出し画像

おっさんが周回遅れで「花束みたいな恋をした」をみたらすっかりはまってclubhouseで部屋立てた話。【ネタバレ】

※この記事にはネタバレに抵触する話題もかなりあろうかと思いますので、ネタバレ警察の方々におかれましては、任意での取り調べはお断りいたします。※※この記事に関しての内容は、音声を通じたコミュニケーション提供サービスであるclubhouseにて何人かの方々とお話しし、触発され私の認識がさらに拡張されたものになったことをお断りしておきます。

それはあるDANROの記事から始まった。

 clubhouseを聞き始めてしばらくして、「もしそば」や、「村上春樹がもし○○をやってみたら」という幻の企画で有名な神田圭一さんが話しているルームである映画が話題になっていた。今思うと、もうあれから1か月近くになる。「花束みたいな恋をした」についての部屋だった。そしてその映画についてDANROというwebメディアで神田さんが記事を書き、さらにはその記事に触発されて何人かの人がさらにclubhouseで話題にしていた。clubhouseというサービスの性格上、ユーザーがフォロー、若しくはフォローされている人のレンジで話しているルームの表示がなされているため、もっと多くの部屋が立ち上がっていたのかもしれない。私も気にはなったが、基本的に音楽、特にJ-POP含めポップカルチャーやいわゆるエンタメに接続する文藝(いわゆる流行作家)が全くわからない。そのため、すぐさまにというほどではなかったが、神田さんの記事からは、そうした私ですらも映画館に運ばせる何かを感じることができた。

神田さんの記事では、こう結ばれている。

『花束みたいな恋をした』が、誰かと親密になるくらい語りたくなる映画であることは間違いない。

 まさにその通りで、実際見てみると何か語りたくなる映画であったし、掘ったら掘っただけ様々なことに築かせてくれる脚本家・坂元裕二さんの妙だろう。あたかも「立ち聞き」していたclubhouseのスピーカーの方同様に、私が熱っぽく語る側となり、上映後すぐさまにルームを開いたのであった。そこでお話ししたりレスポンスいただいたりしたここ1日、2日のことをメモ書きにしてみたい。なお、神田さんの代表作を張っておく。


「電車に揺られて」に惹かれて「生活習慣が合わないってだけで」に絶望する3年間の話―恋愛と生活世界

 この映画のあらすじを一応は言及しておく。公式サイト「ストーリー」によるとこうある。

東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った 山音麦 (菅田将暉)と 八谷絹 (有村架純)。好きな音楽や映画が嘘みたいに一緒で、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。近所にお気に入りのパン屋を見つけて、拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店しても、スマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが…。まばゆいほどの煌めきと、胸を締め付ける切なさに包まれた〈恋する月日のすべて〉を、唯一無二の言葉で紡ぐ忘れられない5年間。最高峰のスタッフとキャストが贈る、不滅のラブストーリー誕生!
──これはきっと、私たちの物語。

 映画の前半、恋に落ちるそのきっかけとして、終電の終わった明大前駅から深夜一路調布駅まで京王線に並行する甲州街道沿いに徒を拾う。

 道すがら会話で長岡市出身の麦は、絹が偶然居合わせた喫茶店での押井守に気が付き、自分と同じくジャイケンで石(グー)が紙(パー)に負ける不条理を考え続けていたことが密かに思いの中で反芻される。一方、飛田給駅近郊に住む、両親が共働きで代理店に勤める絹は、会話の中で「電車に乗っていたら」ということを麦が「電車に揺られていたら」と表現したことに思いが向かい、仄かに好感情が予感される。(ノベライズも出版されすでに三刷以上となっているのでご関心ある方はそちらもご覧ください。)             

 「言葉の表現」と「思いが伝わること」という、人とのコミニケーション(中でも恋愛においては)での重要な役割だが、登場人物の二人はそれぞれの異なるところが発端となって惹かれている。以上の場面が開始20分まで、描かれた恋のきっかけのシーンといえるだろう。映画自体がすでに終わった恋をテーマにしているということでもあり、「いつか終わってしまう出会い」の場面であると思いながら見ていたのだが、そう思うとなおさらに、絹に対しての麦の言葉の変化が気にかかる。映画が後半に差し掛かり、二人のすれ違いを決定づけるエピソードが描かれる。働く環境に適用してしまい労働の世界にどっぷりと浸った麦は、今村夏子さんや滝口悠生さんの作品を読んでも心を動かせなくなり絹とは「生活習慣が合わないだけ」と思わず言葉を発しまう。出会った切っ掛けだったはずの小説や演劇を楽しむという「生活習慣」が麦には共有できなくなっておりその状態で二人は一緒に生活を続けることになる。
 さらにその後、絹は事務職を辞めエンターテーメント系の企画会社に転職し、転職することも含め、二人の言葉のやり取りはどんどん粗雑になり、最終的には、二度の麦からのプロポーズはあるものの感情の起伏もなく、二人の恋愛の終局に向かう。当初二人を結びつけた、「言葉の表現」と「思いの伝達」という役割は、むしろ終局ではある種の諦念となり「二人のさみしさ」を描く情景となる。 

 ここで少し多少社会学的な視点を交えてすれ違いの構造をみてみると、「生活世界」と労働という視点でふりかえってみる。労働はともかく、生活世界という言葉は聞きなれないかもしれない。これは、およそ100年前に現象学の祖としても知られる哲学者のフッサールが定義した用語だが、ここでは後になってもう少し社会思想や社会学で話題になった用語として紹介したい。例えば、インターネット上で確認できる事典・辞典であるコトバンクの生活世界の記事から抜き出して引用してみる。

 生活世界は、判断以前の受動的で根源的な信念の場として知覚的・直観的な環境であるだけではなく、主観が他者たちと共に生きている相互主観的なコミュニケーションの共同体でもあって、そのかぎりでは文化伝統の沈殿した歴史的な世界でもある。例えば幾何学のように理念的な対象を扱う学問も、相互主観的なコミュニケーションの生活世界を地盤として、歴史的な発生構造の中で登場してきたことになる。

 先程のコトバンクによれば「生活世界」とは、「相互主観的なコミュニケーションの共同体」の側面があり、この点をさらに社会哲学者のハーバーマスは、「人と物の関係に規定された道具的理性」に対置するものとして、「コミュニケーション的合理性」を「対話による行為規範の確立を目指す生活世界の合理化」として理論化した(同じくコトバンクの「コミュニケーション的合理性」の記事)。ハーバーマスの見立てはある意味図式的ではあるものの、映画の二人のすれ違いを見ていくときに、二人のコミニケーションの恋愛におけるズレを見ていけるのではないだろうか。

 「生活世界」は一言でいえば、対面で価値観・世界観を投げかけ合う場といってもいいかもしれない。労働における、二人の「生活世界」の浸食は、麦だけではない。絹はその後に歯科医事務の仕事を辞めて、「遊びを仕事に、仕事を遊びに」をポリシーとするイベント企画会社の就職をする。いわば今までの趣味的な世界の延長に見つけた仕事だが、そうした絹の労働の基づく価値観と、eコマース物流会社に順応し(広告代理店の絹の母が言うセリフそのままに)「生きるってことは責任」とする麦との価値観とでは、劇中でも相容れなくなってくる。

 労働を基軸にした価値観から生まれてくる言葉を、相手に同調を迫るわけではないにしても、<異なる価値観を持つ>同じ主体である人として受け止めるのではなく、価値観の投げつけ合いの相手として言葉を投げつける、まるで意思のない物のように。こうした状況は、ハーバーマスによって、生活世界が、労働という道具的合理性(人と物との関係のような状況で適応される合理性)に浸食された状態であり、対話によって共通の価値観を確認し合う「生活世界」の合理化が困難な状況であるといえる。むしろ、労働という道具的合理性を超えた点での対話が模索されなければならないのに。そうした点を失えば、「言葉の表現」も「思いの伝達」も相互に信頼がなければ成り立たない。本作で感じる面白みの一つであるが、恋愛譚の形をとりながら、人のコミニケーションの課題にも触れている点を言い当てられたようにも思う。                     

地縛された文化資本とそれを結ぶ鉄路ー「まなざし地獄」、「ロミオとフリージア」、そして「花束みたいな恋をした」   

 別の角度から少し。読書、観劇、映画、様々な共通の趣味がきっかけとなり恋をした二人が描かれている本作では、時代状況を含め、様々な具体的な作品が登場し、同じ趣味を持つ者にとっては、あたかも自分のことではないのか、と思わせる。さらには、そうした作品に興味を持つ人の行いがちな「しぐさ」の描写も実に具体的かつ巧妙に描かれる。生活様式や趣味に関する文化社会学的研究として、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』という大著がある。1970年代末に刊行されたが、この著作のタイトルである「ディスタンクシオン」とは、卓越性、差異化、上品さなどと訳される。社会的な立場や階級制の違いとともに、教養、学歴、趣味や生活様式の違いがそれらの社会構造と連動しており、さらには学校制度も一見中立的にみえながらも文化の獲得方式に序列や正統的な立ち位置などを与えるとされる。コトバンクの「ディスタンクシオン」の記事(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)の一説にこうある。

他者に対して自己を差異化し、区別立てすることによって、個人または集団が自己規定すること、そして社会的な存在としての自己の承認を得ようとすること、あるいは自己を維持する、つまり自己と他者の境界を維持しようとすること、これらが、ディスタンクシオンという概念によって示されている。

 以上のような「ディスタンクシオン」の視点で、本作を見ると、読書、観劇、映画、様々な共通の趣味も、実はある社会的な集団であり、自分自身のアイデンティティでもあるような、自分たち以外との「他者との境界」が描かれているようにも見えるし、また映画を見る側においても描かれている共通の趣味や生活様式を通して共感が喚起されもする。したがって、この趣味や生活様式、しぐさというものは、時として分断が描かれもする。例えば、「映画に詳しい、結構マニアック」という人でも押井守監督を知らない、というように。「魔女の宅急便といえば実写版」というように。

 そしてこうした「ディスタンクシオン」を醸し出す基盤として、一定の集団に共有される共通の趣味や生活様式といった存在を文化資本と呼ぶこともできるし、そうした文化資本を例えば作品を商品として生産し提供し維持しときに広告としても機能する社会的なシステムを文化産業として把握もされてきた。ブルデューの『ディスタンクシオン』では、特権的な階級や学歴社会における学校制度の階級再生産が問題となるので、特権層における文化資本の分析が前半の中心となるが、誰しもがそれぞれの文化資源を手にし自分の存在証明にしうる消費社会では、様々な文化資本のバリエーションがあるだろうし、様々な「ディスタンクシオン」を示す場が存在するのかもしれない。例えば、消費社会論を分析する三浦展氏は、郊外の研究や地方都市における若者の社会構造に照応した「ディスタンクシオン」的な振る舞いに「承認されたい自分の時代」として言及している。さて、こうした「ディスタンクシオン」が醸し出される場というのは、色々なフェーズでとらえられるだろうが、ある種の地域属性にも絡めて理解されることもできるだろう。

 そうした意味で、言及したい一つの論文と戯曲がある。論文というのは、社会学者の見田宗介氏が1973年に雑誌『展望』に発表した「まなざしの地獄」である。現在では冊子として入手することができる。この論文では、1960年代の東京と上京する青年の抱える孤独と都市の求心力とを、首都を騒然とさせた連続射殺犯N・Nの育成歴を一つの手がかりに、社会的実存の疎外として把握される。見田によれば、この時代すでに資本制の浸透と一方で貧困と地方社会の農村における紐帯の崩壊により「破壊された共同体としての家郷」となって若者の居場所は限定され、中学卒業とともに「金の卵」という「新鮮な労働力」つまり予備的東京の労働力として国策誘導されるという、東京への求心力が説明される。そして、上京した若者は過酷な労働環境から転職や行き場を失う者も多く、そもそも構造的に潜在的な失業者になるものもあり社会的存在感や手ごたえを得る環境からも遠ざけられる。そうした若者の取りうる反射的な対応として見田が指摘するのが「蒸発と変身への衝動」であり、特に変身という点を掘り下げて学歴や高級品志向という「おしゃれと肩書」にこだわる「表相性」に対しての執着が若者に喚起される。地方出身で困難な状況を生きる青年こそが、高学歴やおしゃれに見せることで孤独や「田舎者」という心無いレッテルから逃れることで適応しようとする。本質的な格差や断絶を、「表相性への衝動」で乗り越えようとすることがかえって東京の労働システムに自ら組み込まれざるを得ない1960年代の都会の若者の疎外構造が見事に把握されている。時代的には全く異なるものの、「花束みたいな恋をした」を長岡出身の麦に視点を移した場合、後でも触れたいと思うのだが、麦がなぜ過剰に労働環境に適応していったのか、そうした背景の一つとして、現在でもなお形を変えて把握される気がする東京と地方出身者の疎外の問題として、見田の論文を挙げてみた。

 そうした「表相性への衝動」は、実は都会の孤独な青年ばかりではない、という批評的な作品が、ブルデューの『ディスタンクシオン』の発刊された同じ1979年に実演される。如月小春の「ロミオとフリージアのある食卓」である。この作品では、中野区民が、観劇を趣味とし演劇批評を読んだり話題にしたりする市民として描かれる。登場人物の奇夜比由烈徒(キャビュレット)家の樹里絵津徒(ジュリエット)が主人公として運命の恋人路美男(ロミオ)を待ち続ける形で展開されるが、実はこの劇自体が中野区民によって上演されている劇中劇であって、路美男の役を担うのは事情を知らない三越の配送の名前が不明なアルバイト青年なのであった。この戯曲では、(おそらく如月の目に映った)中野区民というある集合は、ある種の戯曲のセリフであるかのように(「小劇場」が展開する前にもかかわらずすでに)演劇批評の評論をカリカチュアしたかのごとく日常会話に取り入れた市民として描かれており、その地域性の対極に孤独なアルバイト青年が描かれる。さらに劇中の中野区民も、イコンとして華美でないが清潔感のある花フリージアが象徴する「文化的な普段の生活」を演じており、そうした表相性に憑かれつつ疲れてもいる。根っこのところでは、孤独なアルバイト青年と同様な疎外構造である点も感じさせる作品となっている。

 東京で生活すること、さらにはその中のどの地域で生活しているのかという点、さらにはその趣味の文化資源をどこ入手するのか生活エリアはどこなのかという「フィールドとしての文化資源への言及」と、都会生活における潤いを求める「社会的存在感の疎外の構造」を見据える視点、この二点は「まなざしの地獄」と「ロミオとフリージアの食卓」から継承され続けられた東京論の論点であり、「花束みたいな恋をした」においてさらに現代の課題に引き付けてその論点が深められているようにも感じれる。

 また本作では、二人が過ごした具体的な場である<店や街角>、「フィールドとしての文化資源」が、京王線という鉄道で結び付けられており、東京の地域性を帯びた文化資本が鉄路によって結び付けられている点も象徴的に描かれる。似たような文化を運ぶ物である商品に手を伸ばしたものであれば、ひょっとすると同じ<店や街角>に出向いたことがあるかもしれない。さらにその場所を求めて同じ鉄路で運ばれた経験を持つかもしれない。東京での文化資源、街、鉄路が織りなすアンサンプルによって、獲得した「ディスタンクシオン」とも表相性ともいえる、集団認識でもあり東京における自己認識の断絶と同化の心地よさを、この映画では充分すぎるほどに描いている。こうした、地域性を帯びた文化資本と街と人とのかかわりを描いた論考としては、西武線沿線や中央線沿線などの街と文化資源と人の歴史を振り返る原武史の仕事が想起される。また劇中で終電を逃した二人が甲州街道を西に進む足取りの中、下北沢の街の風景をPVに用いたきのこ帝国の歌に言及するのも興味深い。  

 さらに、別れたあとの二人は、実家の飛田給と早稲田という、別々の空間に転居する。早稲田は、京王線沿線からは遠い。一方で、京王線沿線の起点の渋谷が小劇場文化を持つ下北沢や駒場とつながっているように、早稲田も落合や早稲田大学とつながりを持ち松竹早稲田もエリアにある。恋愛の解消から、他の似てはいるが別の街に住むという、麦の選択の描写も含め、鉄路と街と文化をめぐる描写について、「花束みたいな恋をした」の洞察は、社会科学者がさまざまに表現してきた都市と文化への洞察と一致している。

「五年頑張ったら楽になる」は本当なのか―労働の疎外

 労働環境に順応していった麦が絹とがすれ違いになるあたりで、麦の職場の先輩が「五年の我慢だよ。五年頑張ったら楽になるから。」と、出張先の静岡で麦に話す。この出張は急遽前乗りになったために、麦は絹と行くことになっていた「劇団ままごと」の再講演をすっぽかす形になる。また麦は出張での訪問先回りの途中、二人がデートをした際に行けなかった人気ご当地炭焼きレストラン「さわやか」で先輩と二人で夕食を取る。労働の過程に順応した麦は、それまで二人をつなげた文化資本の好みに対する過去の共通点を「生活習慣」と表現した。麦と絹は、次第次第に乖離してゆき、劇中では恋の終局に結び付けられるのだが、地方出身である麦と、都内のおそらくは恵まれた出身でかつ両親が広告代理店に従事する絹では、文化資本に対する距離の取り方や耐性、そして労働における価値観とがそもそも異なってもいたのだろう。その点が次第に物語進行に合わせて明らかになるよう展開されているのかもしれない。

 麦が順応する労働の世界の価値観に関して、この映画を見ながら、マルクスが28歳の時に書いたとされる「労働の疎外」という論考が頭をよぎる。疎外という用語は、少し解説がいるかもしれない。人間が従事しているのに、その人間の意思を超えて従事して作り上げた成果物やシステムが人間に自立的に立ち現れる。これはマルクスによれば外化(Entausserung)とされるが疎外(Entfremdung)ではない。人間が従事して自立的に仕組みが立ち上がったとしても作り手の「自由な対象的な活動」である場合もある。疎外というのは、さらに作り上げたシステムが自立し自己保存するために外在化するだけでなく人の生み出す力を飲み込んでいく様を表している。

 麦の職場で行方不明になった同い年の同じ長岡出身のドライバーが「俺は労働者じゃない」というとき、働けば働くほど外在化されて自由を失う「労働の疎外」が私の頭に浮かぶ。と同時に、劇中では、「社会は責任」と絹の母親が広告代理店のレトリックを駆使して言い放たれた言葉が麦に刷り込まれ、すでに麦はパズドラしか受け付けなくなる。マルクスの論考からおよそ170年、「自由な対象的活動」はどこにあるのだろう。そのあとの世代、戦後アメリカを代表する論客のハンナ・アレントは、労働が社会とつながる行動で人間の条件ではありながら自身の物的・生物的生活を満たす行為であり、他者との交錯に基づかないとし、他の人間の条件の仕事や活動と区別する。麦が悩み順応していく姿は、少なくとも170年前から考えられてきた社会的課題でもある。

「花束」は誰に向けられてたものなのかー結びに変えてー2021年の麦と絹

 すでに8千字を超えて長々と書き連ねてきたが、坂元裕二作品である本作の妙は、作品の掘り込みを深くなぞればなぞるほど、その深層部がぐいぐいと底知れず掘り進んでいき、とてつもない奥行きに驚愕する一方、そんなこと知らなくても、充分に楽しめることである。そして、さらに、作中におそらくは巧妙に用意された余地のような休符のような間が用意されており、創りこまれ織り込まれた物語進行がある部分、自分の経験で補って上書きしないと進めないような仕組みも織り込まれている。掘っても語りたくなり、彫り込まなくても自身の生活経験をもとに創造し、ストーリーにいつの間にか参画してしまう。

 結果私もどうなったのか、3月1日に最初に鑑賞し、その後、clubhouseで感想を語り、そこで話したことも書き留めるために現在ブログを書き、その間に、最初見逃した40秒を確認するために再度もう一度鑑賞した。さらには、神田桂一さんからAwesome city club成立史とこの映画での位置づけなどを教えてもらう。映画のパンフレットの資料などを見ながらお話を伺うと、坂元裕二がひょっとするとこのバンドの今後の行く末さえも念頭に入れながら映画の準備をしたのではないかと思うと、映画の重層構造がどこまで続くのか空恐ろしくなる。ここまでの作りこみと、想像で補う間拍の妙。ひとまずは、この映画の魅力と思ったことを書き出すことでいったん自分を鎮めよう。

 さて、そのうえで、この作品の中の具体的描写、作品、特定される時代性について。この作品の中に登場する作品や映画や場所などは実在したものでかつ具体的である。そこまでの特定はなぜ必要だったのか。パンフレットでも触れられていたが、テレビであれば(広告的な判断や「時代的な陳腐さ」を懸念しても含め)その点は曖昧にされていたであろう。しかし、見終わって今思うと、むしろこれは、意図的であるに違いないと私には思える。むしろ個別具体的な固有名詞にこだわることで、ディテールを演出するだけではなく、歴史的な示唆性を醸し出しているのではないか。

 この映画は2020年に終わっている。二人が別れた後そのままの仕事に従事しているなら、麦はeコマースの物流、絹はエンタメ系のイベント会社である。コロナ禍で二人はどうなったであろう。おそらく、麦の会社は営業成績を伸ばしたかもしれない。絹の会社はどうだろうか。持続架給付金の支給では間に合わず、泣く泣く経営者が自主退社を呼びかけて従業員は失業保険で一時的にしのいでいるかもしれない。そう考えると、この映画の時代状況のディテールが事細かに描かれていることで、作品自体がコロナ禍以前以後ということも彷彿とさせるような歴史アーカイブともなっており、作品が終わっても、そのあと登場人物はどうなったのだろうと、あるいはエンタメを含む文化資源はどうなっていくのだろうと、考えさせる。

 もう一つ映画を見終わり劇場を出てから引っかかっている点がある。「花束」とは何だったのか。植木と対比させた意味で「根無し草」的に花束を理解することもできる。私はこう思った。歴史を経て経済も社会も進展し、テクノロジーも介在し生活環境は大きく変わっても、いつの時代も生物学的に相手を求め、どこかで稚拙なまでに恋愛をし続ける人間、その象徴としての麦と絹の稚拙さを見て、それ以外の、たとえば私のようなおっさんが自分の家族に何かしらの感謝の意を感じてみたりする、背中合わせに別れの手を振りながら相手に伝わっているかどうかにかかわりなく、手を振る二人のように稚拙さを見送る人、そうした人が麦と絹から人を見つめる<思い遣り>という花束を受け取っているのかもしれない。

(我ながらキモイものを書いたかもしれないが)記録として置いておきます

(了)















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?