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遥かなる鰹節

母方の祖母は紀州の印南出身(いなみ)だった

ずいぶん昔の話だが、私の祖母はとても利発な女性で、しかも当時の漁場出身では稀なことに女学校を出ていたので、大層望まれて大阪の船場の商家に嫁いだという。印南の家は私の祖母の実家であるので、昔は親戚の中でもそこそこ付き合いがあったが、次第に交流は少なくなっていった。私が小学生の頃は、夏の紀州の海が好きで、私がいつも行きたがったからか、二年に一度程度は印南を訪れていた記憶がある。祖母の実家には、私とほぼ同世代の男と女の子供がいて、なぜか女の子とはよく遊んだ思い出がある。台風上陸が迫る中でも、その女の子はシミューズと呼ばれていた下着のまま、防波堤の上から海に飛び込んで悠々と泳いでいた。その子が高校を卒業して、芸術系の大学に進学するため大阪を訪れ、確か一緒に学校訪問に付き合ったことがあった。おそらくそれが彼女との最後の交流だったような気がする。彼女が大学を卒業して写真家になったということは聞いていたが、それから顔を合わす機会はなかった。

津波と生きてきた祖母の故郷

祖母の故郷は昔から、頻繁に津波の被害に遭う町だったようで、祖母の家もそうだったが、海に面したところに一つの家があって、それからしばらく丘を登ったところに第二の家があった。海に近い家は、津波が来ることを前提にして建てられていて、その家は時計店を営んでいたが、津波で流されると困る大きな時計や箪笥などは、小さな津波が来ても流されないように鎖でつながれていた。また家の畳や箪笥も流されても困らないように、畳の裏や家具に大きな墨の文字で家の名前が書かれていた。津波が来ても、津波が引いた後、いつも近所同士で互いの畳や家具の交換をしていたという。今では、当然行政による津波対策が立てられていると思うが、昭和21年の南海の大地震ではこの町も大きな被害を受けたことだろうと思う。

祖母の家が日本料理に欠かせない鰹節を開発

祖母の兄である親父さんと話をしていると、祖母の家は、今では世界中で使われている鰹節を開発した家だということだった。それぞれの家には、その家に伝わる歴史があるが、私の祖母の家が鰹節の開発者であったという話は私にとっても誇らしい話だった。名誉と思いつつ、いつとはなしにそのことを忘れていたが、ある時私は仕事の関係で高知県を訪ねることがあった。私は地域開発の仕事にかかわっていて、地元の高知県の関係者と何かの博物館か何かを訪れる機会があった。高知県は、今ではかつお節の一大生産地であり、鰹節の沿革について詳しく紹介されていたが、その中に土佐のかつお節は、紀州の印南の漁民、何某が土佐に伝えたとの記述があった。
私は帰宅して、webで詳しく調べてみると、和歌山県の印南町のホームページには、鰹節は印南町の漁民の開発によるものだ明記されていた。いまでは鰹節は、土佐、焼津から沖縄にいたるまで日本各地で生産されていて、また生産地ごとに製法にアレンジが見られるが、そのルーツはいずれも紀州の印南であることは間違いないようである。印南の祖母の実家とも実質的な交流はなくなっているが、日々の食事の際に、鰹節で出汁を取り、料理に鰹節を載せたりするとき、台風の上陸が迫る紀州の海の荒々しさと、凪いだ和歌山の海の大らかさを思い出す。


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