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今、人権週間なんだって。

今週は人権週間だったらしい。
毎年あったはずなのにぜんぜん覚えてない。

1948年12月10日に「世界人権宣言」というのが採択されたので、人権週間としたんだって。

朝礼で支社長からのメッセージが読み上げられる。当たり障りのない文句がならんでる。

当たり障りなさすぎて聞き流すから、人権週間の存在そのものを忘れるのかもしれない。

いつものように「無」になって、言葉を聞き流す。
さらさらと言葉が流れる。読み上げる管理者自身、読みながら聞き流している。


「互いを平等な人間として尊重できるか」


ん?


平等な人間。
人権って、平等な人間として尊重することなんだったっけ?

戦後間もない1948年。
平和を目指して、このような宣言がなされた。

んだよね?たぶん。

ぼくは平等主義は平和を生まないと思ってる。
なんかネガティブっぽいけど、そうじゃなくて不平等を前提にした方が生きやすいと考えてる、ということ。

人権という考え方は「国家権力による抑圧」から国民を守るためにできたらしい。

でも、ぼくらが日頃ストレスに感じてることの多くは「国家権力による抑圧」じゃない。もちろん、抑圧はされてるのだろうけど、直接的なストレスはより身近なことにある。

多くの人は日常のコミュニケーションにストレスを抱えてる。

世界の貧困問題。
5秒に1人子供が飢え死にしています。
そのような世界人権宣言的課題に本気で向き合う余裕はない。


「ぼくはずっと、自分が存在するのか分からなかった。でもぼくはいる。世間も気づき始めた。」


映画『ジョーカー』でアーサーが発したセリフだ。世間がアーサーに気付いたのは、エリートサラリーマン3人を殺害する、という出来事があったからだ。

偶然起きたアクシデントによって、アーサーは実在感を得たのだった。


でも本来、社会はぼくらに気づかない。
気づくのは「身の回りの誰か」だ。
一足飛びに社会に気づかせようとすると、おかしなことになる。


世の中は平等にならない。
時に人権も損なわれる。


そのような社会の中で「でも、ぼくはいる」
そう伝えてくれる身の回りを作ること。それが、ぼくらの生きる道なのだと思う。

そんなことを感じた今朝でした。

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