De Las Pobres


かつて御釈迦様はこう仰いました。

―阿形像を盗まれたならば、
 吽形像も差し出しなさい、と。

 これは、と俺は差し出された吽形像を前に逡巡した。一組の何かを揃えて発動される類の呪いやも知れぬ。道理を弁えた古物商は最早俺から吽形像を買い受けぬであろう。だが、俺にはあの小太りの老古物商より他に、此んな物騒な品物を引き取って貰える当てが無い。揃わなければ良いのだ、と俺は考える。既に古物商は抜け目無く、金に糸目を付けぬ好事家に阿形像を売り払っているに違いない。俺が吽形像を持ち込んだ処で、何食わぬ顔をして其れを買い叩くであろう。「毎度有り」等と、心にも無いおべんちゃらを言い乍ら。
 ああでも無い、こうでも無いと、どうでも良い事に考えを巡らせていると、二人連れの警官が寺門を駈け込んで来る。「御宅の物と思われる阿形像を此の界隈の古物商で見掛けた、との通報が有りまして」と、年配の警官が住職に詰め寄る。「おや、あれは吽形像」目敏く俺の姿を見止めた若い警官が、素っ頓狂な声を上げる。しかし、住職は些かも動じる事無く「あの阿形像は、此ちらの方が御金に困っていると御見受けして、拙僧が差し上げた物。其の際、吽形像を忘れて行かれたものを、こうして取りに居らした迄」と澱み無く弁明する。そう言われて仕舞っては、「成程、差し上げた物ならば、金に替えようが焚き付けに使おうが此の者の自在」と引き下がるより他無い。年配の警官は訝し気に俺を睨み付け乍ら「とは言うものの、儂の所管で此れ以上騒ぎに為って貰っては困る。阿形なり吽形なり、とっとと抱えて町を出て行け」と横柄に言い付ける。俺は「有難う御座居ました。御心配をお掛けしました」等と彼方此方に頭を下げながら、吽形像を背負って、そそくさと寺を後にした。
 愈々、困った事に為った。此んな風に、当ても無く吽形像を抱えた儘うろついて居ては、何時何処で阿形像に出食わすとも限らない。そうなれば、一体どの様な怖ろしい呪いが俺の身に降り掛かるやも知れぬ。阿形像を売り払ったのは三日前、ひょっとして未だあそこにあったらと考えれば、古物商に寄るのは危険に思われた。いっそ国を出よう。だが、何処へ。萬集家の屯する欧羅巴は駄目だった。新興成金の集う米合衆国も同じ事だ。或る日フト言うに言われぬ望郷の念に取り憑かれた阿形像が己の根源を辿る事でもあろうかと危惧されて、亜細亜は一層論外の様に思われた。阿形像は赤道を越えられぬのでは無いか、漠然とそんな考えが浮かんで、俺は南へ向かう船に乗った。
 サンパウロに着いて数日も経たぬ内に、俺の選択が間違っていた事を思い知らされた。こんなに日本人が多いとは知らなかった。人混みの中に、只傍らを通り過ぎる人に、ついつい阿形像の面影を見付けて仕舞う。居ても立っても居られなくなって、俺はボリビアの山中を目指した。アスンシオンの酒場の雑音だらけの国営ラジオで、俺はパリの高名な美術商が自動車に轢かれて亡くなった事を知った。コチャバンバの新聞スタンドの見出しに、あの欲深いさで度々非難を受ける英国の博物館が火災に見舞われたと書かれていた。サンミゲル・デ・トゥクマンの駅の待合室のテレビが、然る中東の王子がテロリストの銃弾に倒れたと告げていた。サンチアゴの古びた食堂で一日を無為に過すお年寄り達が、ウォール街の投資家の惨たらしい最期を噂していた。何でもそいつは生涯契約で借上げた高級ホテルのペントハウスで、五体をばらばらに引き千切られているのを発見されたのだと云う。「とても人間の仕業とは思えない」との地元警察の声明が、実しやかに伝えられていた。俺は、筋骨隆々たる阿形像の裸身を思い浮かべて、背筋の凍る様な戦慄を覚えた。俺は、疲れ果てて背負う事も難しく為った吽形像を引き摺り乍ら、海岸伝いに更に南へと下った。
 ウシュアイア、世界の南の果ての町、嘗てはアルゼンチン政府に拠って定められた流刑の地であったと云う。俺の長い長い逃避行の終点として、此処ほど相応しい土地は無い様に思われた。日本人観光客の姿を見掛けても、もう俺は驚かなかった。寧ろ日本人達の目に、吽形像に凭れ掛る薄汚れ草臥れた俺の姿は奇異に映っている事だろう。露骨に俺を指差して嘲笑する様子にさえ、漏れ聞こえる日本語がとても懐かしく思われ、却って俺を心地の良い郷愁に浸らせた。だが、それも束の間の事だった。あぎょう。確かにそう聞こえた、俺は激しい悪寒に襲われた。不意に目を見開いた俺を、怯えた若者が見詰めて居た。「阿形っ、阿形と言ったのは手前ぇかっ、阿形がどうしたのだっ」詰め寄る俺に新聞を投げ付ける様にして、若者のは一目散に走り去った。拾った新聞の一面には、震撼すべき見出しが載せられていた。

『オーストラリアに謎の阿形像が出現』
“シドニーから約80㎞南に位置するウーロンゴン、その町にある南半球で最大とされる仏教寺院のナン・ティエン(南天)寺の門前に仁王立ちする一体の阿形像を、15日早朝参拝に訪れた信者が発見した。台湾系の寺院であるナン・ティエン寺にとって阿形像は縁の薄いものだが、有り難い仏様の御姿である事は一目で分った、と発見したチャン・ハンガイさんは語っている。ウーロンゴンの町が突然舞い降りた「奇跡」に沸き立つ一方で、地元警察は盗難品の可能性もあるとして…”

 何と云う事だ。阿形像は俺を追って、いとも容易く赤道を越えている。最早俺と阿形像の間には、遮るものとて無い太平洋の海原が在るばかりだった。俺は遂に我が身の破滅を悟った。否、俺の身の事ならば当の昔に諦めも付いて居る。恐ろしいのは、阿形像が彷徨の道々に網目の如く張り巡らせた呪詛回路とも云う可き物の発動だった。そんな事に為れば、此の世界は只では済まぬだろう。大地が裂け、空が落ちて来るだろう。何たる呪い!ほんの出来心で阿形像を盗んだばかりに、世界の終焉を見届けねば為らぬとは!兎も角、一日でも時間を、1㎞でも距離を稼がねばと思った。南極は、みすみす阿形像の懐に飛び込む様なものだ。俺は胸に深い絶望を、背に重い吽形像を抱え乍ら、フォークランド行の定期便に潜り込んだ。
 空は遠くに晴れ渡り、海は何処迄も穏やかに波打っていた。こんな事態でなければ、快適な航海だったと思っただろう。阿形像がどの辺りまで迫っているかは想像も着かなかったが、吽形像には此れと云う異変も見られなかった。遙かに、フォークランドの島影が見えて来た。その時だった、俄かに重い黒雲が拡がり、海が激しく時化始めた。頻り無しに稲光が閃いて、船室からは切迫した悲鳴が聞こえた。見た事も無い様な甚大な雷の直撃を受けて、船体が真っ二つに割れた。為す術も無く海に落ちて行く乗客を目の当たりにして、俺は只管懸命に祈った。神様仏様、どうか俺の愚かな過ちをお許し下さい!真に厚かましい願いではありますが、卑小な我が身と引換えに、此れ等の罪なき人々を御救い下さい!目も潰れんばかりの眩い光が天に溢れて、俺は意識を失った。
 気が付くと、俺は独り呆然と立ち尽くしていた。海は、まるで何事も無かったかの様に静かに凪いでいる。柔らかな陽射しに白く照った砂浜には、俺より他に溺れ死んだ遺体も、打ち壊された船の残骸も認められなかった。そして目の前には、憤怒の形相で俺を睨み付ける阿形像が居た。
「あ」と、阿形像は言った。
「うん」と、俺は思わず応えていた。
 俺は踵を返して逃げ出そうとしたが、身体が強張ってどうにも動かない。そんな俺を見て、阿形像は白い歯を剥き出しにして高らかに笑った。「待て待て、今更何処へ行こうと言うのだ。既に此処より外に地上と呼べる場処は無い」そうか、矢張り世界は滅んだか。絶望に打ち拉がれて、口を一文字に結び押黙る俺を、阿形像は優しく諭した。「此の地から始めようではないか。私達が共に手を取って、再び仏法の支配する王国を興すのだ。永劫の命を持つ私達ではあるが、お前にとってはさぞ辛い遍路であったろう。一先ず此処は、私達の再会を祝うとしよう」鷹揚に、しかし飽く迄も身勝手にそう宣告する阿形像の肩に、真紅の鸚鵡が留まった。
「いと艶やかにして可愛いらしい鸚鵡よ、我が名は阿形」と阿形像が名乗った。
「アギョー!」と鸚鵡は応えた。
「いと穢れ無くも果敢ない鸚鵡よ、我が名は吽形」と俺は名乗った。
「ウンギョー!」と鸚鵡は応えた。

アギョー! ウンギョー!
アギョー! ウンギョー!
アギョー! ウンギョー!

阿形像と吽形像は互いに顔を見合わせて、とうとう腹の底から笑った。


―「貧しきものについて」


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