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私と野球とデザイン Vol.01

野球少年だった私は、どうして今、デザイナーをやっているのか。自分でも不思議だが、野球少年がデザイナーになることもある。

幼少~小学校時代

子供の頃から引っ込み思案。人を笑わせるのは好きだけど、クラスの隅っこでちょっとマニアックな話をする感じ。テレビラジオっ子で、でも野球が好きでそこそこうまくて、1人で絵を描くのが好き。足もそこそこ速かった。ぜんそく持ちで身体は弱かった。母子家庭を悟られたくなくて人の言動に敏感になってた。少し劣等感を抱いていたかもしれない。

小学校6年生の時、書店からの広告で見かけた「デザインの現場」という本を取り寄せて買ってもらう。将来を意識したわけじゃないが、絵を描くのが好きだったので、デザインというワードに興味を持ったのかも。デザイン=グラフィックデザインという頭があって、ポスターとか描く人、絵が上手い人みたいな感じで思っていた。田中一光さんの有名なポスターに感動したが、特にデザイナーを目指すわけでもなく。

中学生時代はごくごく普通

中学に入り野球部へ。丸坊主に。尊敬できる先生(監督)に出会ったおかげで、県大会ベスト4まで無敗の快進撃。ショートでレギュラー。練習はやや厳しかったけど、とにかく野球が大好きだった。普段は人気グループには属さない、ごく普通の中学生で、前に出るわけでもなく、無難に振る舞いながら、波風立たないように過ごしていた。体育会系なノリでもなかった。

一方、家ではノートに漫画を描いたり、ラジオをテープに録音したり。どちらかと言うと根暗かも。なぜか3年の体育大会で「デコレーション長(デコ長)」という役をすることに。大きなパネルに絵を描く係の一番偉い人。結果的にはこのときにデザイナーとしての第一歩になっていた。団席の横の大パネルの絵に布袋寅泰「GUITARHYTHM3」のジャケットを採用。デザイン科の高校を考えたりもしたが、冒険はせず普通科へ。

地獄の高校野球時代

そして高校時代。もちろん野球部で甲子園を目指す。しかし想像を絶する地獄の生活が始まった。なかなか信じてもらえないが、自衛隊のような生活。朝練がある日は5時半起き。朝練がない日は7時半頃からグラウンド整備やらボール磨き。毎朝食事ノートを提出。朝から疲労で授業中は半分寝る。体育の時間は真剣にやらないとみんなの前でボコボコに殴られ蹴られる。昼休みもない。グラウンド整備と放課後練習の準備。そのために毎日早弁。ジュース禁止。オレンジジュースしか飲めない。カルシウムとビタミンタブレットを食う日々。

普通の高校生活ができない。

練習内容もしんどい。メディシンボールで体幹強化、パラシュートや強力ゴムをつけて走るなど、どこから仕入れたのかプロのようなことを。ヘマしたらバットで殴られそうになる。筋トレはガチなやつ。冬は筋トレ地獄。水筒で持参した牛乳にプロテイン入れて飲み、帰宅したら夜の22時。週末は練習試合と1日練習。放課後どころか、休日にどこかへ遊びにいった記憶がない。正月も2日からやっていた気が。これが2年半続く。全てただの公立の普通科の進学校の話。もはやデザインどころの話ではないw

練習量だけは負けない自信があった。

でも練習量だけは強豪校に負けない自信があった。実際に最後の夏、某強豪の優勝候補校に勝ってしまい大波乱と騒がれる。ベスト8で力尽きたが、このためだけに何日間我慢してきたかと思うと涙が出た。しかし、こんな厳しい生活を続けられたのは、野球を辞めるという選択肢は自分の中になかったから。それほど野球が好きだった。今の自分を形成するためには絶対必要な時間だった。とにかくやるしかない状況で身体に覚えさせることは大事なことでもある。

高3の夏。進学のことを考えた時に。

そして問題は、この地獄が終わったあと。さて、どうしよう。それまで進路のことを本気に考えられなかったが、いざそれを考えた時、自分は何がやりたいんだろうと。燃え尽き症候群。そういや野球以外何もやってねぇな、と。強制的にやらされていたとも言える高校野球は、ある意味、強制的だからできたとも言えるが、「大好きな野球だったのに、めちゃくちゃ嫌な思い出ばかりだな...」という自責の念が。その反動が出ることになるのです。

<つづく>

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