見出し画像

オタクなら解釈違いをすればいい。

昨日語ったこと。ちょっと補足したくなったので続きます。

そもそもキャラクターってなんだろうということを考えた。
個人的な感覚としては、キャラクターはそれ単体として成り立つものではなく、その作品世界やストーリー、キャラクター同士の関係性から構築される相対的な存在だと捉えている。

元も子もないことを言えば、想像上にしかないフィクションの世界においてキャラクターが担う役割といえばストーリーを盛り上げるためのコマであり、視聴者や読者に消費されるための人形でしかない。それを言ってしまえばまあそれまでだが、しかしだからと言って作者やライターの都合で同じキャラクターなのに出てくるたびに性格や見た目が変わったりしたらそれは興醒めだ。

だから面白い(というか僕が好きになる)キャラクターは作者の手を離れた確立した人格を持っているように感じる。作者がやっていることは、その作品世界、ストーリー、キャラクター同士の関係性から「このキャラクターならこういう状況ならこう動くはず」という箱庭療法というかロールプレイによってキャラクターを動かしているように思う。つまりそれは人格を持ったキャラクターが何をするのかという作者の解釈を見ているとも言える。

本来、二次創作で起こる事象が一次創作でも同じように起こっている。
ということは、言うなれば「ゼロ次創作」がどこかに存在しているはずだ。

僕はそれを「オタクのイデア」と言っている。

イデア論とは古代ギリシャでプラトン説いた学説で、滅っっ茶苦茶掻い摘んで言うと、プラトン曰く「この世界に完璧な三角形は存在しない。何故ならいくら定規で引いた三角形でも、紙は凸凹してるし、鉛筆もよく見れば完璧な直線じゃないから、全ては虚像。」ってことらしい。
何を屁理屈言っているんだという感じですが、ようするにプラトンが言いたいのは「でも僕たちは完璧な三角形の形をイメージすることは出来る。何故なら完璧な三角形は天国にあって、それを無意識の中で知っているから。」ということを言ったのがイデア論で、そのイメージをイデアと言う。
(多分こんな感じだった。間違ってたら申し訳ない)

僕は基本この考えに立脚してキャラクターを見ている。
だからオタクがよく「公式が正義」とか「解釈違い云々」で揉めているのを見ると「全ては虚像…正しさはイデアにしかない…」と思う。作者のイデアも、二次創作のイデアも、自分のイデアも全部並列に捉えているので、他人の解釈については全く気にならなかったりする。

余談だけどこれだから好きな作品の同人ゴロみたいなのが好きじゃないんだろうなと思う。だって明らかに作者とファンの間で共有されているイデアより弱いから。その程度の解釈じゃ誤魔化せないぜ?と心のマウントを取っている。



今日の写真。

画像1

深夜に食べるツナサンドは1.6倍くらい美味い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?