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【歳時記と落語】小正月・元宵・藪入り

旧暦の1月15日は「小正月」ですな。2021年は2月26日に当たります。
昔はこの日までが「松の内」とされました。注連縄やら書初めやらを燃やす「左義長」が行なわれるんもこの日です。「左義長」は地域によっては「どんと」「とんど」とも言いますな。

中国でもこの日は、「元宵節」というお祭りです。昔の暦は月の満ち欠けをもとにしてしておりますのんで、まあこの日は必ず大体満月ということになりますな。それになぞらえて、この日は「湯円」という団子を食べます。胡桃やゴマの餡をもち米の粉で作った皮で包んだもんです。また家族円満を願うもんやとも言います。まあ、普段でも食べますが。

この「元宵節」というお祭りは灯篭やら提灯やらを街中に灯すお祭りですが、その起源はなんと漢の時代にまで遡るんやとか。秋田の竿灯祭りというたら8月ですが、どうも唐の時代あたりにはもう、竿灯みたいな派手な飾りが使われとったようです。
長崎のランランフェスティバルはまさにこの「元宵節」のお祭りです。

江戸時代に木戸を閉めたら、その外に出たらあかなんだというのと同じで、その時代は夜中は街中に出てはいかんということになっとった。まあ、「坊」という囲いの中は出歩いてもよかったんで、普段から夜中も店が開いてるなんてことは唐宋の時代からあったと言いますからえらいもんです。ところが、この「元宵節」の晩だけは夜中に「坊」から出て出歩いてもよかったやんやそうです。夜通し宴会てなことも珍しいことやなかったそうですな。普段は外に出られん宮中の女たちも、この晩だけは見物に出掛けることができたと言います。まあ、一種普段とは違う「別世界」みたいなもんやったんですな。
それがよう分かるんが、昔のあちらの小説です。普段外にでることのない女性の外出の機会ですから、男女の出会いの場としても、たくさん登場します。たとえば、「牡丹燈籠」の原話である『剪燈新話』所収「牡丹灯記」もそうです。

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また、そんな「別世界」でっさかいに、この「元宵節」には大概なんや大きな騒動が起こる。『水滸伝』では第72回になりますが、宋江以下数人が東京開封へ見物にやってくる、そして小旋風・柴進は禁裏にまで忍び込み、黒旋風・李逵は大暴れ、浪子・燕青は名妓李師師と出会い、後の招安へのきっかけを作ります。
最近では、日本でも放送された中国ドラマ「長安二十四時(長安十二時辰)」が、まさに天宝3(西暦744)年〔ドラマでは「天保」〕の1月15日の上元つまり「元宵節」の1日を描いていました。

この小正月明けの16日は「薮入り」といいまして、お店(たな)の奉公人も親元へ帰ることができました。この日の後はもう7月16日の「盆帰り」、これも「後の薮入り」といいますが、これだけでした。従業員の休みは年に二回やったんですな。番頭でも通い番頭てなもんはよっぽどですから、奉公人というたら店で一緒に暮らすもんやったんです。それだけに、親の方でもこの日は待ち遠しかったでしょうな。落語にはその様子を描いた「薮入り」があります。

奉公にやった息子が三年ぶりに帰って来るというので、二親ともそわそはしておりますが、男親はもう前の晩から落ち着かない。ああもしてやりたい、こうもしてやりたいと、しゃべって女房を寝かせんような始末です。
さて、帰ってきた息子、玄関で丁寧に挨拶を致します。
男親は喉が詰まって声が出ない。涙で息子の姿も見えないありさま。
ようやく落ち着いた所で、息子は湯に出掛けます。
ふと見ると、息子の財布が置いてあります。見ると、15円という大金が入っています。奉公先からの子小遣いにしては多すぎる、なんぞ悪いことにでも手を染めたのかとやきもきしているところへ、息子が帰ってきます。
父親は思わず先に手がでてしまう。喧嘩になったところへ、母親が割って入って訳を聞きます。
息子が言うには、世間ではペストが流行っていて、警察が懸賞をかけて子供に鼠捕りをさせた。そのネズミの懸賞に当たって15円もらったんやが、子供が大金を持っているのは物騒な、というんで、今日まで旦那さんが預かっていたんですが、薮入りやというんで持って帰らせてくれた。
「懸賞に当たったのか、よかったなぁ。くれぐれも主人を大事にしなよ。これも忠(チュー)のお陰だから」。

この噺、もともとは江戸ダネで三代目三遊亭金馬が有名です。

上方では桂福団治師匠が、後半を切って父親のドタバタを中心にしてやってはります。

さて、この話、舞台は明治33年以降と特定されます。というのもペストの流行でネズミの買い上げがなされているからです。

このくだりは「香港と大阪で伝染病と戦った第二の男 その1」でも紹介していますが、ここでも記しておきましょう。

日本でペストが発見されたのは、明治32(1899)年。6月に香港を出て横浜に寄港した亜米利加丸船内からペスト患者2人が発見されます。速やかに船内での隔離を行い、上陸の阻止に成功します。幸い、この2人は回復しました。なお、このときの検疫を担当したのは野口英世です。
しかし、この年の11月に神戸港からペストがついに上陸してしまいます。荷揚げされた綿花や穀物が感染源と見られ、インドや中国からのくず綿などについて禁輸措置がとられます。その後散発的に患者が発生し、感染した鼠も発見されます。
また、神戸でのペスト患者発生からしばらく後に大阪市でも最初の患者が確認されます。この患者もくず綿からの感染と考えられました。輸入綿花を扱う業者の関係者に集中的に患者が発生しました。また、12月には、やはりペストに感染した鼠の死体も発見されました。
このペスト上陸に対して、調査に赴いたのは伝染病研究所長・北里柴三郎、同部長の志賀潔と守屋伍造、内務技師・高木友枝の4人でした。
その報告によると神戸市では12月の終息までに患者23人(死者19人)、大阪市では翌年1月の終息までに患者41人(死者39人)を数えたということです。他県でも数人の患者があり、北里は、今回の流行は明治32年11月に始まり同33年1月に終息し、患者69人、死者63人と報告しています。
また、同報告書によると、大阪神戸ではネズミ1匹を5銭で買い上げる措置をとったところ、神戸市では、1899年11月から翌年1月末までに17339匹、大阪では同期間に15000匹余りが買い上げられたということです。大阪の方が少ない理由については、大阪では古来ネズミを福の神の使者として奉る風習があって、ネズミ駆除に障害となったと記しています。

これに倣い、東京市はネズ1匹を5銭、20万匹を買い上げる決議をしたと、12月30日付の報知新聞が報じています。そして翌年1月15日から買い上げが始まりました。

近江八幡の名物に丁稚羊羹がございます。商品名としては「でっち羊羹」と書くんやそうですが、小豆の餡に砂糖を混ぜ、小麦粉を加えて練り合わせ、竹の皮に包んで蒸したもんです。近江八幡というたら近江商人発祥の地です。お店は大阪やら京都やら、或いは江戸にありますよってに、薮入りとなりますと、丁稚奉公に出てる子どもたちが帰ってくるんですな。それで、お店に戻るときに土産物にしたのが、「でっち羊羹」の始まりやそうです。大阪では小豆や砂糖を減らした、安価な柔らかい羊羹のことも丁稚羊羹と言うてました。これは逆に丁稚が薮入りの土産に買うて帰ったのんで、その名前がついたそうです。

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