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【つの版】度量衡比較・貨幣106

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 三十年戦争において、フランスはカトリック国でありながらプロテスタント勢力を支援し、反ハプスブルク同盟の盟主となりました。そしてデンマークとスウェーデンが敗れると、本腰を入れて介入を始めます。

◆銃◆

◆士◆


仏蘭宰相

 16世紀後半のフランスは、カトリックとカルヴァン派プロテスタント(ユグノー)による内戦がそれこそ30年以上も続き、国内は荒廃していました。1589年にはプロテスタントと同盟した国王アンリ3世がカトリック勢力に暗殺されてヴァロワ王朝が断絶し、傍系のブルボン家ナバラ王アンリが跡を継いでブルボン王朝を拓き、アンリ4世となります。彼はユグノー派の盟主でしたが国内再統一のためカトリックに改宗し、スペインの干渉を跳ね除けたのちナントの勅令を発布して、ユグノーにも信教の自由を保障しました。

 しかし1610年、アンリ4世は狂信的なカトリック信者により暗殺され、8歳の息子が跡を継いでルイ13世となります。彼の母マリーはフィレンツェのメディチ家からアンリ4世に嫁いだ人物で、息子の摂政の座につきました。しかし彼女は息子が13歳を過ぎても摂政を続け、1615年にはスペイン王女アナ(アンヌ・ドートリッシュ)と息子を結婚させ、故郷から伴っていた寵臣コンチーニを元帥とし、あからさまにカトリック贔屓の姿勢を取りました。

 1616年、アンリ4世の叔父の孫である大貴族、コンデ公アンリ2世が反乱を起こし、ユグノーの支援を受けました。翌年4月、16歳のルイ13世は宮廷クーデターを起こし、コンチーニらを暗殺して粛清し、母を幽閉して実権を取り戻します。しかし彼の寵臣リュイヌ公シャルル・ダルベールは貴族たちに人気がなく、母后マリーは1619年に幽閉先から脱走し、不満貴族に担がれて反乱を起こします。ルイ13世はこれを叩き潰し、ついでにユグノーの反乱も叩き潰しますが、鎮圧軍を率いたリュイヌ公は1621年に疫病で斃れます。

 リュイヌ公に代わって台頭したのがリシュリューです。彼は全名をアルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリューといい、フランス西部のポワトゥー地方出身の小貴族リシュリュー家に1585年に生まれました。父フランソワはカトリック信者で、アンリ3世とアンリ4世に仕え活躍しましたが、1590年に熱病で死去しました。リシュリュー家は国王からの恩給(リュソン司教職)で生活基盤を得ており、幼いアルマンはパリで勉強して聖職者の道を目指すことになり、1607年にはローマでリュソン司教の叙階を受けます。

 リュソンはフランス西部の現ヴァンデ県にあって大西洋にほど近く、多数のユグノーが住んでいた地域でした。リシュリューはこの地で精力的に教会改革に取り組み、1614年に開催された全国三部会では聖職者代表として演説し、摂政マリーと寵臣コンチーニに見出されます。1616年には国務卿に任命されますが、翌年の宮廷クーデターで失脚し、追放されました。

 のちマリーが貴族反乱の盟主として担がれると、リシュリューは国王の命令でマリーの説得を行い、成功します。国王はリュイヌ公の没後「国務会議によって統治を行う」と宣言しますが、マリーとリシュリューはこれに加わり、ユグノー弾圧を支援しつつ国務会議を乗っ取ります。リシュリューは1622年にカトリックの高位聖職者である枢機卿に、1624年に首席国務卿に任じられ、事実上の宰相として国政を掌握したのです。

国家盛大

 国王ルイ13世も母后マリーも熱心なカトリックで、王妃アンヌはスペイン出身のハプスブルク家ですから、フランスは神聖ローマ帝国の内戦(三十年戦争の初期、ベーメン・プファルツ戦争)ではカトリック側につき、国内ではユグノーを弾圧していました。新宰相リシュリューも枢機卿ですから反プロテスタント側かと思いきや、彼は国王ともども反ハプスブルク派でした。

 この頃、皇帝軍はプロテスタント諸侯に対して相次いで勝利をおさめ、その波紋は帝国外にも及んでいました。1624年6-7月、リシュリューはオランダ、英国、スウェーデン、デンマークと相次いで友好条約を結び、対ハプスブルク包囲網を結成して牽制します。国内ではユグノーを弾圧しておきながらプロテスタント諸国と手を結ぶのも変な話ですが、理由はあります。

 フランスは15世紀末のブルゴーニュ戦争イタリア戦争以来、伝統的に反ハプスブルクで、各地で領土紛争を起こしていました。16世紀にはスペインやポルトガルもハプスブルク家が継承し、内紛続きで大航海時代にも出遅れたフランスは勢力拡大を狙っていたのです。もしフランスがハプスブルク側につけばカトリック側は大勝利ですが、英国やネーデルラント、北欧諸国などプロテスタント諸国を敵に回し、戦争の矢面に立たされます。そこでリシュリューとルイ13世は「カトリック国として国内の反政府勢力を弾圧し、外ではプロテスタントと結ぶ」ことにしたのです。対ハプスブルクのためならイスラムの盟主オスマン帝国とも結ぶような国ですから仕方ありません。

 またフランスはアルプス山脈の要衝ヴァルッテリーナを巡ってハプスブルク家と争っています。ここは北イタリアとドナウ川を結ぶ街道にあり、南のミラノ公国を抑えるハプスブルク家にはバイエルンやオーストリアとの通路として必要でした。フランスはこれを遮断するため北イタリアの大国ヴェネツィアと手を組み、プロテスタント勢力を支援して1624年にここを奪っています。ハプスブルク家は必死で反撃し、バイエルンもフランスにここを抑えられるのを嫌って皇帝側についたため、以後争奪戦が続きました。

 リシュリューは「国王の尊厳と国家の盛大」をスローガンとし、中央集権を進めて国王を国内における絶対君主とし、国王の私有財産である領土を維持拡大することに力を注ぎました。母后マリーや王妃アンヌ、カトリック勢力はリシュリューを非難しますが、国王ルイ13世は大いに喜びます。ルイは自分から実権を奪おうとする母を嫌っていましたし、流産を繰り返して世継ぎを産めないアンヌにも失望していました。リシュリューはマリーを裏切ってルイに接近し、彼をおだて上げて実権を握ったというわけです。

 1625年3月、英国王ジェームズ1世が崩御し、皇太子チャールズ1世が王位を継承しました。彼は同年ルイ13世の妹アンリエット・マリー(ヘンリエッタ・マリア)と結婚しますが、彼女は熱心なカトリック信者で英国に馴染まず、非カトリックの多い英国民からは非難されました。またチャールズはフランスとの同盟を後ろ盾としてオランダを支援すべくスペインと開戦しますがうまくいかず、リシュリューは英国を見限って1626年にスペインと単独講和します。怒った英国はフランスに宣戦布告し、ユグノーを支援するためアキテーヌ地方の港町ラ・ロシェルに艦隊を派遣しました。

 艦隊を率いたのはチャールズの寵臣バッキンガム公でしたが、リシュリューは自ら軍を率いてラ・ロシェル包囲を続け、英国艦隊を撃退してユグノーを降伏させます。1629年には抵抗を続けるユグノーを屈服させ、同年には北イタリアへも侵攻してスペイン軍を撃退しました。1630年には母后マリーらの工作により失脚しそうになりますが、国王を説得して翻意させ、逆にマリーらを再び幽閉しています。英国王チャールズはやむなくフランス・スペインと講和し、議会と対立しつつ国内を統治することにつとめます。

 アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』は、この頃のフランスや英国が舞台となっています。主人公のダルタニャンは王妃アンヌの危機を救うためリシュリューの陰謀に立ち向かい、ラ・ロシェル包囲戦にも参戦していますが、史実のダルタニャンは彼より10歳年下で、パリに出たのは1630年頃と思われ、リシュリューやその後継者マザランに仕えて活躍した人物です。

 1631年、フランスはスウェーデン国王グスタフ2世を支援して神聖ローマ帝国に侵攻させます。これによりプロテスタント勢力はボヘミアやバイエルンまで進出しますが、皇帝軍の必死の反撃により押し戻され、グスタフが戦死するなど窮地に追い込まれます。1635年、リシュリューはこれを支援すべくスペインに宣戦布告し、長きにわたる対スペイン戦争が始まりました。

◆使◆

◆魔◆

【続く】

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