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【つの版】邪馬台国への旅20・黄幢

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

正始元年(240年)に親魏倭王の金印紫綬や詔書・下賜品が倭國にもたらされてから、しばらく間を置いて、正始4年(243年)に再び倭國が魏に使者を派遣します。この間に何があり、倭國はなぜまた使者を送ったのでしょう。

◆Raise your flag◆

◆声の限り◆

倭王復遣使

其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、𤝔(けものへんに付)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
(正始)四年(243年)、倭王がまた使者を遣わした。大夫の伊聲耆掖邪狗等八人が、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布(絹布)、丹木、𤝔、短弓矢を献上した。掖邪狗等一同を「率善中郎将」に任命し、印綬を授けた。

正始元年の翌年、正始2年(241年)4月には、孫呉が揚州と荊州から同時に攻め寄せる事件(芍陂の役)がありました。司馬懿も出陣しています。蜀漢の蔣琬も漢中から攻め寄せる計画でしたが、自身の病気と道路の険阻を理由に中止されています。孫呉は首都での皇太子孫登の病死もあって6月に撤退しますが、魏の国境地帯はダメージを受けました。

そして魏志斉王紀によれば、正始4年の正月に皇帝曹芳元服(冠礼、成人式)を迎えています。8歳で即位したので232年生まれとして、この年12歳。元服は20歳か15歳というのが普通ですが、「周の文王、魯の襄公は12歳で冠した」との伝説から、君主が幼い時などには12歳でもいいことになっています。芍陂の役も魏の皇帝が幼いことから孫呉が侮って起こしたようですし、早めに成人させておこうという群臣の意向でしょう。

元服すると結婚が可能になるため、4月には皇后の甄氏(曹叡の母の親戚)を立てて大赦を行っています。また秋7月には曹真・曹休・陳羣・夏侯淵・張遼ら曹操以来の名臣の霊を太祖(曹操)の霊廟の庭で祀りました。

冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。(斉王紀。日本書紀神功紀で引用)

同年12月、倭國女王俾彌呼(卑にニンベンがついていますが、ただの表記揺れです)が再び朝貢使節を派遣して来たわけです。理由と目的は明らかで、皇帝の元服をお祝いして盛り上げるためのイベントです。大月氏王の使者は遠過ぎておいそれと招けず、同格ということになっている親魏倭王の使者を招いたのでしょう。後漢の安帝も13歳で即位した翌年に倭國王帥升を招いているので、よくあることです。内外への権威のアピールです。

冬12月に洛陽で謁見したということは、夏に南風を利用して倭地から帯方郡に渡り、帯方郡から山東半島に渡って陸路を行く前回のコースで来たのでしょう。その前に帯方郡から「魏の皇帝が元服するから使者を送りなさいよ」という招待状が届いていたはずです。倭國も使者が一回だけでは失礼ですし、もっと上等な貢物を選んで正式な使節団を派遣することになります。

伊聲耆掖邪狗

この時の使者は難升米と都市牛利ではなく、伊聲耆掖邪狗ら8人でした。正使の伊聲耆と副使の掖邪狗なのか、伊聲耆掖邪狗で一つの名なのかはわかりません。後の方で掖邪狗と呼ばれていますが、伊聲耆が正使の名なら省略はしないでしょうし、(伊?)都市牛利が牛利と略されたように伊聲耆掖邪狗という一つの名だと思います。

伊聲耆掖邪狗の上古音は *ʔij *[l̥]eŋ *[ɡ]rij *[ɢ](r)Ak *sə.ɢA *Cə.kˤroʔ です。これまでの地名や人名で伊を「い」、邪を「や」、狗を「こ/く」と読んで来ましたが、聲・耆・掖はどうでしょう。一般に「いせぎ・ややく」と読みますが、都市牛利が「伊都つ(の)牛利」という名と推測しましたから、伊聲耆も「伊都つ」の表記揺れではないでしょうか。「伊都つ掖邪狗」です。前回は奴國の難升米が正使、伊都國の都市牛利が副使でしたから、今回は伊都國の者が正使となったとすれば、伊都國王のメンツも立つでしょう。

仲哀紀によると、仲哀天皇が筑紫に入る時、穴門の引嶋(関門海峡の北側にある山口県下関市彦島)で五十迹手(いとで)という者が船に乗って出迎えました。船には大きな賢木(榊)が立てられ、上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝に十握剣が掛けられていました。天皇は彼を「伊蘇志(いそし)」すなわち「よく勤(いそ)しんだ、忠義である」と讃え、彼の治める國を伊蘇國と名付けました。伊覩(伊都)はその訛りだというのです。後付の地名説話に過ぎませんが、崇神紀でも穴門の伊都都比古(いとつひこ)が都怒我阿羅斯等に「私がこの國の王である」と言って欺こうとしたとの逸話がありますし、伊都國と穴門との関わり、伊都國王の独立心を伺わせます。そして伊都が伊蘇の訛りだとするなら、伊都が伊聲(イソン?)と表記されてもいいのではないでしょうか。確証は持てませんがそんな気がするだけです。

とすれば、掖邪狗は彼の個人名です。「ややこ」と読むと赤ん坊や稚児のようですが、子供を使者にするはずもありません。『日本書紀』には屋久島や奄美大島など南西諸島を指すと思われる掖久(夜勾・掖玖)という地名があり、『隋書』流求伝にも倭國の使者が流求(台湾)の産物を「夷邪久國」のものではないかと言う話があります。古くから九州や南西諸島では貝殻を加工して腕輪にする風習があり、あるいはその交易に関わる名でしょうか。しかし倭からの貢物にまだそうした物品はありません。不明としましょう。

献上品

今回は前回よりも献上品が多少豪華になっており、「生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、𤝔(けものへんに付)、短弓矢」と何種類もあります。各々の数量については書かれていません。辰砂や真珠や翡翠はありません。

生口や倭錦、綿衣や帛布、短弓矢は理解ります。まだ木綿はないので綿は絹綿です。縑(けん)は目を緻密にして織った絹布で「かとり(堅織り)」と倭訓し、絳青ですから深紅と青に染め分けています。長弓矢ではなく短弓矢を持って来たのはなぜでしょうか。

丹木𤝔はよくわかりません。「丹木𤝔」で一つなのか、「丹と木𤝔」と分けるのかもわかりません。丹木とは丹塗りか漆塗りの物品でしょうか。それとも丹朱の誤記で辰砂のことでしょうか。

『山海経』西山経によると、峚山に丹木があり、葉は丸く茎は赤く、花は黄色で実は赤く、食べると飢えることがなくなります。五年経った丹木は五色が清く五味が香ります。また崦嵫之山の上には丹木が多く、葉は楮(こうぞ)のよう。その実は大きくて瓜の如く、赤い斑と黒い筋があり、食べれば渇きを癒し火を防ぐといいます。スイカかなんかでしょうか。西方にあるという神秘的な樹木が、なぜ東の倭地からもたらされるのでしょう。

𤝔は『康煕字典』を引くと「もとに作る。獣の名で羊に似る」とあります。『山海経』南山経猼訑という幻獣がいます。羊に似て尾が九本、四つの目が背中にあり、肉を食うか身に帯びると物怖じしなくなるといいます。こんな生物が倭地にいたのでしょうか。わからなくなってきました。

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仮に𤝔がの誤記だとすると、花の萼(がく)を指す字で「丹木」とやらの花の萼となりそうですが、花でなく萼を持って来る意味がわかりません。後漢の『論衡』に「周の成王の時、天下は太平で、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢いだ」とありますが、これでしょうか。それならそうと書けば良さそうです。なお鬯草はウコン(鬱金)だとする説がありますが、ウコンはインド原産で倭地では産出しません。

だとすると弓の握り手の部分「弓束(ゆづか)」ですが、短弓と続けるなら握り手の部分が短い弓となり、意味がわかりません。「丹木短弓」で「赤い木の弓束をつけた短弓」だとすると収まりが良くはなりますが、結局よくわからないのでスルーします。

ともあれ伊聲耆掖邪狗ら8人は、全員が難升米と同じく「率善中郎将」に任命され、印綬を賜っています。率善校尉の都市牛利はどうしたのでしょう。難升米と掖邪狗はこの後も登場しますが、都市牛利は現れません。正始4年の倭使はこうして無事使命を終え、翌年には帰国します。

曹爽と司馬懿の対立

司馬懿が次々と功績を積み上げていくのに対し、曹爽は皇族だというだけでまだ大した手柄がありません。そこで司馬懿を太傅(皇太子の教育係)という名誉職に祭り上げて実権を握ろうとします。ただ軍部は有能な総司令官である司馬懿に従っていますし、敵国が健在なこともあって軍権を取り上げることはできず、内政を担当するから軍事はよろしく、と職務を分担します。そして側近の何晏を吏部尚書(人事部長)に任命し、自分の取り巻きを政府の中枢に送り込みました。司馬懿には嫌な展開です。

司馬懿は芍陂の役で大敗はしなかったものの、国境地帯を荒らされて大勝利を得ることもできず、曹爽一派が朝廷で幅を利かせ出します。増長した曹爽は軍権の一部を取り戻そうと画策し、父曹真が活躍した西方で手柄を立てようと考え、蜀漢を攻撃する計画を立てました。正始5年(244)3月に始まる「興勢の役」です。しかし蜀漢の防備は固く、魏軍は5月に撤退しました。西方の軍権は一応手にしたものの、曹爽の威信はガタ落ちです。一方司馬懿は鄧艾を登用して淮南で屯田を行わせ、大きな成果を挙げました。

高句麗・東濊討伐

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正始三年、(位)宮寇西安平。其五年、爲幽州刺吏毌丘儉所破。(東夷伝高句麗条)

公孫淵討伐以来司馬懿の地盤となっていた東方では、高句麗と魏との関係が悪化していました。正始3年(242年)、高句麗王の位宮は遼東郡西安平県(現在の中朝国境、鴨緑江に面した丹東市)に侵攻しましたが、幽州刺史の毋丘倹に撃退されました。公孫淵討伐で活躍した将軍で、司馬懿が洛陽に戻った後もこの地域の防衛を担っていた重要人物です。

正始5年(244年)、毋丘倹は兵を率いて玄菟郡(撫順市)を進発し、諸街道を通って高句麗を討伐しました。高句麗王位宮は敗戦を重ね、首都の丸都城(吉林省通化市集安)も陥落し、妻子を連れて東方へ逃げます。毌丘倹は司馬懿派なので、これは司馬懿の手柄となります。

正始六年、樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗、興師伐之、不耐侯等舉邑降。(東夷伝濊条)

正始6年(245年)、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は、高句麗に服属していた「領(嶺)東の濊」を討伐しています。嶺とは単単大嶺ともいい、朝鮮半島東部を南北に伸びる太白山脈で、その東は日本海に面する江原道です。かつて臨屯郡や楽浪郡に属していましたが、辺境なので放棄されました。土着の濊人はその跡地の管理を委託され、租税や貢物を郡に納めて来ましたが、高句麗は東方の沃沮(夫租、咸鏡道)や濊を武力で服属させ、貢納させていたのです。高句麗と呼応して反乱すると楽浪郡や帯方郡、韓も危険なので、劉茂と弓遵は頑張って平定しました。不耐侯は不耐(不而、現北朝鮮の江原道[1946年以前は咸鏡南道]の安辺郡)県城を治めていた濊人の長です。

なお高句麗・夫余・沃沮・濊は言語も文化も似通っており濊貊と総称されますが、ツングース系の挹婁(粛慎・靺鞨・女真・満洲)や韓人、倭人とは異なるようです。馬韓と帯方郡の跡地に建国された百済の王族は高句麗の分派でしたが、百済の民衆は韓人で、漢人(華僑)や倭人も住み着いていた多種族国家でした。新羅や任那、倭國にも様々な種族が混在しています。

馬韓の反乱

同じ正始6年(245年)には、馬韓が魏に反乱を起こしました。

部從事吳林、以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪。吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。(魏志東夷伝馬韓条)
(幽州の役人である)部従事の呉林は、「楽浪郡はもともと韓国を統治していた」として、辰韓の(12國のうち)8國を楽浪郡の管理下に入れることにした。この決定に対して通訳と韓人の間で行き違いがあり、臣智(韓人の酋長)や韓人が激怒して、帯方郡の崎離営(営は砦)を攻めた。時に帯方太守の弓遵は、楽浪太守の劉茂と共に兵を興してこれを討伐したが、弓遵は戦死した。しかし(帯方・楽浪)二郡はついに韓(の反乱軍)を滅ぼした。

従事とは州刺史・州牧の補佐官で、部従事はおそらく部郡国従事、すなわち州の下の各郡国を監察する上級の地方官僚です。権限は非常に強く、郡国や諸県の官吏が悪事を犯せば上奏して罷免・逮捕もできる職権がありました。そのような偉い役人が、現場を無視してヤバいことをしでかしたのです。

漢の武帝が朝鮮王国を滅ぼして置いた楽浪・玄菟・臨屯・真番の四郡は、朝鮮半島の大部分を制圧していました。辰韓や弁辰(弁韓)の諸国は、真番郡に入植させられた漢人の子孫が、真番郡が放棄された後に県城を拠点として自立したものです。それで辰韓や弁辰では中国語(秦語)が話されており、いわゆる秦(はた)氏や隋書の秦王国の民とは、彼らが海(韓語でパダ)を渡って倭地に来たものです。辰韓は秦韓とも呼ばれます。匈奴や鮮卑では漢や魏の支配下にないチャイニーズ(華僑)を「秦人」と呼んでいた記録がありますし、インドでもチーナ(仏典で支那、震旦)と呼んでいます。

しかし辰韓は勢力が弱く、馬韓で選ばれる馬韓人の王を「辰王」として頂きチャイナ本土との対外窓口にしていました。弁韓が独自の王を頂いているのは倭地との交易で儲かっていたからでしょう。要は馬韓諸国にとって辰韓は「うちらのシマ」であり、そこへ魏の役人が勝手に手をつっこんだのですから、通訳が間違えなくても猛反発が起きることは誰でも予測できます。

「ならば討伐して平定するまで」と軍を出したものの、帯方太守の弓遵は戦死してしまい、反乱軍を滅ぼしても馬韓には反魏感情が渦巻いたままです。呉林はえらいことをしてくれたものです。ひょっとして曹爽派が東夷撹乱計画要員としてねじ込んだのでしょうか。なおこの件は本紀には記述がありません。皇帝の耳に入れるほど大したことではないと思われたのでしょう。

黄幢下賜

これを受けて、魏志倭人伝にはこうあります。

其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
正始6年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢(黄色い軍旗)を賜り、(洛陽から帯方)郡に送付して授けさせた。

これだけではなぜ難升米に黄幢が授けられたかわかりませんが、背景事情を知ることで理解ります。馬韓の反乱で帯方太守が戦死するという事件が起きたため、辰韓・弁韓・倭地も動揺したでしょう。そこで使者を派遣してなだめさせ、かつは同調して魏に背かないよう説諭し、魏の軍事力と権威を表す軍旗を与えて威圧・牽制した、というわけです。

五行説では、漢は火徳で赤を象徴色とし、それを継いだ魏(や王莽や太平道や袁術や公孫淵や孫呉)は土徳とされ、を象徴色としました。曹丕は漢の禅譲を受けると「黄初」と改元しています。は彩色した布を竿の先から垂らしたもので、江戸時代の火消しの「まとい」めいたものです。

ところで、なぜ親魏倭王卑彌呼や伊聲耆掖邪狗ではなく、難升米に黄幢が授けられたのでしょうか。おそらく魏から帰還した彼は倭地で英雄視され、かなりの実力者になっていたのでしょう。一大率になったかどうかわかりませんが、北部九州(旧倭奴國)は東の邪馬臺國、南の狗奴國に挟まれ、かつての栄光は微妙なものとなっていましたから、魏に初めて使者として赴き、一年以上も滞在して先進文明に触れ、皇帝に拝謁した難升米は英雄扱いされて不思議ではありません。都市牛利は帰国後に病死でもしたのでしょうか。

それに邪馬臺國は東の奥地で、卑彌呼は神に仕えて人前に姿を現さない巫女です。奴國や伊都國にとって一番近い狗奴國から、軍事力を振るって防衛してくれそうな人物は一大率か伊都國王、及び難升米ら帰国した「遣魏使」になります。その代表として魏と最も親密な難升米が選ばれたのでしょう。

難升米が帯方郡に赴いて受け取ったのか、帯方郡の使者が伊都まで来て難升米に授けたのかはわかりませんが、どちらにせよ馬韓が反乱して動揺している中ですから命がけです。係争地の辰韓に近い弁韓経由の陸路は使えず、馬韓の西と南を通る海路を使うしかないでしょう。

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王頎到官

其八年、太守王頎到官。
正始8年(247年)、帯方郡の太守に王頎(おうき)が着任した。

弓遵の戦死により、帯方郡には一時的に太守がいなくなります。これを幽州刺史や朝廷に連絡し、次の太守が決まるまでは、おそらく楽浪太守の劉茂が帯方太守を兼務して事後処理にあたったでしょう。辰韓の8國を楽浪郡に併合する計画は中止され、韓の各酋長や倭國にも根回しが行われます。

正始7年(246)春2月、毋丘倹は再び高句麗を征伐し、高句麗王は北東の北沃沮(咸鏡北道)へ逃亡しました。玄菟太守であった王頎は毋丘倹の命令で追撃し、沃沮の彼方の粛慎氏(挹婁)の南界まで到達して、業績を刻んだ石碑を建てました。高句麗王は行方知れずになりましたが、この戦いで魏が獲得した首級や捕虜は数千に及び、その勢威は東海に及んだのです。

また斉王紀によると、この頃韓那奚ら東夷の数十カ国が各々部族を率いて降伏しました。那奚という國名は三韓諸国のいずれにも見えませんが、馬韓には監奚卑離國、感奚國、狗奚國がありますから、このいずれかでしょうか。根回しが功を奏して、韓の動揺はなんとか鎮められたようです。

そしてその翌年、不在であった帯方郡の太守に、玄菟郡から王頎が転任して来たというわけです。彼は青州東莱郡(山東省威海市・煙台市)出身で、この方面に関しては事情もよくわかっていたでしょう。玄菟太守は正始初年から勤めていたようです。

◆Raise Up◆

Raise Up

彼の着任からまもなく、音沙汰のなかった倭國で事件が発生します。狗奴國と倭國の争い、および卑彌呼の死です。次回はそれを見ていきましょう。

【続く】

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