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【つの版】大秦への旅02・安息條支

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

大宛(フェルガナ)、安息(上古音:an sjək,パルティア)、烏弋山離(カンダハール)の位置関係はわかりました。では、條支(上古音:dog kieg)はどこにあるのでしょうか。

◆條◆

◆支◆

安息西界

まず、『史記』大宛列伝にはこうあります。

安息国の西はすなわち條枝で、北には奄蔡(アオルソイ、カスピ海北方の遊牧民)、黎軒がある。

黎軒については後で考えるとして、『漢書』にはこうあります。

條支は烏弋山離の西に接し、100余日余り行くと到達する。国は西の海に臨み、蒸し暑く、稲を植えている。大きな鳥がおり、卵は水瓶のよう。人は甚だ多く、往々にして小君長があり、安息はこれを役属し外国となしている。よく目くらまし(幻術)を行う。安息の長老が伝え聞くには、條支には弱水があり、西王母がいるというが、まだ見たことはないという。條支から水に乗って西へ100日余り行くと、日が入る所に近いという。

『山海経』等によると、西王母は崑崙に住む女神で、崑崙は弱水に取り囲まれているといいます。條支とは崑崙なのでしょうか。

さておき、『後漢書』西域伝にはこうあります。

烏弋山離から西南へ馬で100余日行くと條支である。條支国城(首都)は山の上にあり、周囲は40余里(17.36km)。西海に臨んでおり、海水が環のように城の南と東北をめぐっていて、西北の隅だけが陸路で通じている。土地は蒸し暑く、獅子・犀牛・封牛・孔雀・大雀を産出する。大雀の卵は甕のよう。條支から馬で北東へ60余日行くと安息である。安息は條支を服属させ、大将を置き、周辺の城を支配させている。

また、安息国条にはこうあります。

和帝の永元9年(西暦97年)、西域都護の班超は甘英大秦に使者として遣わし、甘英は條支に至った。大海に臨んで渡ろうとしたが、安息西界の船人は甘英にこう言った。「海水は広大で、往来する者はよい風に逢っても3ヶ月かけてようやく渡ることができます。もし遅い風に遭遇したら2年はかかる場合もあります。それでこの海に入る者は、みな3年分の食糧を持っていきます。海中は、よく人を陸地に恋慕させ、しばしば死亡者があります」。これを聞いて、甘英は行くことをやめた。

條支は西の大海に接し、その海の彼方に大秦があるようです。カンダハールやパルティアから西南にある西海とは、ペルシア湾、地中海、あるいは紅海でしょうか。どれにしろ対岸へ渡るのに3ヶ月や3年もかからないでしょう。大西洋に到達したはずもありません。だいたい、この頃のパルティアの西の国境とはどのあたりでしょうか。

『魏略』には「これら4つの国は西に向かって繋がり、(前の時代から)増減することがない」とあります。しかし、続いてこう書かれています。

以前は誤って條支は大秦の西にあるとされていたが、実際は東にある。また條支は安息より強いとされていたが、今は條支が安息に服属し、安息西界と号している。また弱水は條支の西にあるとされていたが、今は大秦の西にある。さらに條支の西に200余日行くと日が入る所に近いと言われていたが、それは大秦の西である。

情報が錯綜しています。魚豢が記録した状況と、それ以前の記録にはズレがあるようです。アップデートをしなければなりません。西方の史料から安息国、アルサケス朝の状況を見てみましょう。

安息建国

パルティア(パルタウァ)とはイラン高原北東部の地名で、トルクメニスタンの首都アシガバード付近も含まれます。メディア王国、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王、セレウコス朝に服属した後、紀元前247年に独立し、前238年にはサカ人ダーハ族パルニ氏族の長アルサケス(アルシャク)が王となります。

800px-前240年頃の西アジア

辺境の小国としてセレウコス朝に再び服属したり、東のバクトリア王国に圧迫されたりしていましたが、次第に力をつけ勢力を広げ、東はマルギアナ、西はヒュルカニアに及ぶ王国となります。

前2世紀中頃、バクトリア王国とセレウコス朝でほぼ同時期に王位を巡る争いが勃発し、各々サカ族とローマの襲来で崩壊し始めます。パルティア王ミトラダテスはこれを好機として前148年に西方のメディア(テヘラン付近)を征服し、前141年には南下してバビロニアへと侵攻、セレウケイア(セレウキア)を陥落させてウルクまで到達しました。ミトラダテスは「諸王の王(皇帝)」を名乗り、前140年にはエリマイス王国を攻撃して首都スサを陥落させますが、サカ族侵攻の急報を受けて引き返しました。セレウコス朝の王デメトリオス2世は反撃しますが大敗し、捕虜となっています。

しかし急激に広がった領土ではギリシア人の反乱やサカ族の侵入が頻発し、前138年にミトラダテスが崩御すると帝国は混乱に陥ります。前123年に即位したミトラダテス2世は、サカ族を東のアラコシア付近に封建して従属国シースターン(サカの国)とし、西ではカラケネ(バビロニア)やアルメニアを服属させました。前92年にはローマの将軍コルネリウス・スッラと条約を結び、ユーフラテス川を国境とすることで合意しています。

さらにミトラダテスは首都をヒュルカニアからバビロニアに遷し、ティグリス川を挟んだセレウケイアの東岸に新都クテシフォン(Ctesiphon,Tyspwn)を建設しました。ここはセレウコス朝時代にユーフラテス川との間に作られた運河との結節点で、サーサーン朝時代にも首都となり、アラブに破壊されるまで750年にも渡って繁栄しました。南には古都バビロンがあり、北には後にバグダードが建設されています。

張騫はこのような時代に西域へ旅し、大帝国となった安息国、アルサケス朝の情報を聞いたのです。彼は安息を含む西域諸国へ使者を遣わしましたが、前113年の張騫の死後、漢の使者は諸国の使者を伴って戻ってきました。

大秦安息

その後、パルティアはまたも内紛で混乱し、ローマはこの間に東方へ勢力を広げます。セレウコス朝はもはやシリア地方の小国に転落しており、前63年にはローマに取り潰されてシリア属州が置かれました。前54年、シリア総督クラッススはパルティア遠征を目論み、ユーフラテス川を渡って侵攻しますが、前53年にカルラエの戦いで大敗を喫し戦死しました。

これ以後、パルティアとローマは対等の敵国として対立し、パルティア軍がパレスチナまで侵攻することもあれば、ローマ軍がパルティア領内に侵攻することもありました。アウグストゥスが帝政を開始すると両国は講和条約を締結し、アルメニアの宗主権を巡って緊張状態を孕みつつも共存します。

パルティアは首都が国境のユーフラテス川に近い平野部にあり、ローマや遊牧民に攻め込まれやすいですし、東方のイラン高原には大貴族や王族が割拠していて、中央集権的な帝国ではありません。それでも経済的には首都周辺が最も栄えており、肥沃な農地を抱え、東西を結ぶ陸路のみならずペルシア湾・インド洋を介した海路の貿易も盛んでした。王族はゾロアスター教などイラン系の宗教を信仰していましたが、首都付近にはギリシア人やユダヤ人のコミュニティも多く、仏教やキリスト教も伝来していたようです。

班超が西域で活躍し甘英が派遣された頃、パルティアの大王はパコルス2世でした。彼はアトロパテネ(タブリーズ付近)で王位につき、ローマと結んだメソポタミアの対立王アルタバヌス3世と10年間争った後、西暦90年にようやく打倒したばかりで、王位は安定しませんでした。ローマ帝国では西暦96年に皇帝ドミティアヌスが暗殺され、ネルウァが即位したばかりです。

『後漢書』西域伝に「章帝の章和元年(西暦87年)、安息国は使者を使わして獅子と符抜を献上した。符抜は麒麟に似ているが角がない」とあります。

條支正体

このようにパルティアの歴史を見ていくと、「かつては安息より強く、のち安息に服属して西の境となった」條支とは、セレウコス朝とセレウケイアにほかなりません。『史記』の時にはまだクテシフォンへは遷都しておらず、ニサヘカトンピュロス(クミス)に都があったのです。ユーフラテス川の西へパルティアが恒久的な支配権を及ぼしたことはありません。

條支(上古音:dog kieg)とはセレウケイアともシリアとも読めませんが、アンティオケイア(アンティオキア)が訛った形でしょうか。セレウコス1世の父はアンティオコスといい、歴代のセレウコス朝の王にもアンティオコスの名がしばしばあり、シリアのアンティオケイアはセレウコス朝の首都となりましたから、パルティア側ではそう呼んでいたのかも知れません。
6世紀中頃の『魏書』西域伝によると、波斯国(サーサーン朝ペルシア)の都は宿利城(セレウケイア・クテシフォン)といい、忸密(ブハラ)の西に在って、古の條支国です。城は方10里、戸数10余万もあり、河(ティグリス川)が城の中を南へ流れているといいます。セレウケイアとクテシフォンはティグリスを挟んで一体化していたようです。

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西に大宛・安息・條支・烏弋と並んでいるというのは、フェルガナとメルブの間のソグディアナをスルーしていますが、烏弋の西に條支があるともいうのですから、メルブの南でカンダハールの北のヘラートあたりまでセレウコス朝の勢力が残っていた頃の伝聞とも思われます。のちセレウコス朝の勢力は縮小し、安息西界となったのです。『史記』に「北に奄蔡、黎軒がある」というのは、條支でなく安息の北でしょうか。あるいは黎軒とはテヘラン近郊の古都ラガー(ラゲス、シャフレ・レイ)のことでしょうか。

「土地は蒸し暑く、稲(麦)を植える」というのはバビロニアに当てはまりますし、ライオンや、大きな卵を産む鳥(ダチョウ)もかつては分布していました。犀や孔雀はインドから取り寄せたのでしょう。「城の三方を海水が巡り、西北の隅だけが陸路で通じている」というのは、町をそのように運河が取り巻いていたのでしょう。ただしセレウケイアの西に海はなく、ユーフラテス川と沙漠があるばかりです。甘英は何を見たのでしょうか。

地図をよく見ると、セレウケイアの西にはいくつか湖があります。アンバール州のサルサール湖は面積2710km2、南北120kmもの巨大な湖ですが、これは1956年にティグリス川の洪水を鎮めるため作られた人工湖で、古代には存在しません。南のハバニヤー湖は小さく、ラザザ湖も1970年代後半に作られた人工湖です。まあもともと窪地(プラヤ)なので古代には多少水が溜まっていたかも知れませんが、渡るのに3ヶ月や3年もはかかりません。

たぶん、ローマと東方諸国との中継貿易で栄えていた安息国が「漢とローマが手を結ぶのは損だ」と考え、甘英をユーフラテス川までで引き止めたのでしょう。そしてローマについては適当なことを吹き込み、脅して帰らせたものと思わせます。甘英もそう伝えると漢のメンツに支障があるため、西海が遮って到達できなかったとし、適当に情報を集めて戻ったのでしょう。

波斯薩珊

十三年、安息王满屈復獻師子及條支大鳥、時謂之安息雀。

甘英が帰った後、永元13年(西暦101年)に安息王の満屈復(上古音:moːnʔ klud buɡs)が獅子と條支大鳥(安息雀、ダチョウ)を漢に献じて来ました。満屈復を「満屈が復(再)び」と読む場合もありますが、どちらにせよ当時の大王パコルスとは異なる名で、ヴォロガセスやオスロエスとも違います。これはペルシア(ファールス)地方に割拠していた地方政権の王と思われ、ペルシアの人名マヌーチェフルに相当するのではと言われています。でも安息王と名乗っていますし、パコルスが訛って満屈になったのかも知れませんが。

パコルス2世の死後、パルティアは西のオスロエス1世と東のヴォロガセス3世に分かれて争いました。オスロエスは勢力を広げるためアルメニア王国の王位継承争いに介入し、ローマの反感を買います。西暦113年から116年にかけてローマ皇帝トラヤヌスはパルティア遠征を行い、アルメニア・メソポタミア・アッシリアに属州を設置し、ローマ皇帝としては初めてペルシア湾に到達しました。クテシフォンもセレウケイアも陥落し、オスロエスの子パルタマスパテスがトラヤヌスによってパルティア王位につけられました。

しかし占領地では反乱が頻発し、ローマ領の東方全域でもユダヤ人が一斉蜂起します(キトス戦争)。西暦66-73年のユダヤ戦争でエルサレムが陥落し神殿が略奪されて以来、ユダヤ人はローマへの激しい憎悪に燃えており、ユダヤ教から派生したキリスト教でも『ヨハネの黙示録』などに反ローマ精神が受け継がれています。トラヤヌスは撤退し、パルタマスパテスを属国オスロエネの王に封じますが、117年にキリキアで崩御しました。

次の皇帝ハドリアヌスはメソポタミア等新設の3属州を放棄し、パルティアとローマの国境線はユーフラテス川に戻りました。その後も両国は相争い、パルティアも内紛をやめず、2世紀後半から3世紀にかけては繰り返しローマに首都へ侵攻されるに到りました。ペルシア(ファールス)はこれに乗じて独立し、君主パーパクが王を称します。

彼が戦死した後、子のシャープフルとアルダシールは相次いで王位を引き継ぎ、224年にはクテシフォンを占領し、226年にパルティアの大王アルタバヌス4世を討って「諸王の王」を名乗ります。228年にはヴォロガセス6世も倒され、アルサケス朝は終りを迎え、サーサーン朝に取って代わられました。

これはチャイナでいうと魏の文帝曹丕の末年から明帝曹叡の初年にあたりますが、『魏略』には安息が滅んだとは書かれていません。班超以後は長らく西域と後漢の連絡が途絶え、情報が更新されていなかったようです。

◆波◆

◆斯◆

ともあれ、甘英はチャイナに西海の彼方の大秦に関する情報をもたらしました。それはどのようなものでしょうか。

【続く】

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