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【つの版】ウマと人類史:中世編15・塞爾柱家

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦999年、北のカラハン朝と南のガズナ朝は中央アジアのサーマーン朝を滅ぼし、アム川を境に対峙しました。ともにテュルク系の騎兵を主戦力とし、カラハン朝はタリム盆地、ガズナ朝は北インドまで進出、イスラム教を広げます。両者を破ったのはテュルク系オグズ族セルジューク朝でした。

◆トルクメニ◆

◆スタン◆

烏古斯族

 オグズ(Oghuz)はテュルクの一派で、グズ(Ghuzz)、クズ(Kuz)、ウズ(Uz)などとも表記されます。もとはウイグルやオグルと同じく「部族」「連盟」を指す語ですが、やがて特定の部族集団を指すものとなりました。最も古くは史記匈奴列伝に「呼掲」とあり、魏略西戎伝では「呼得」と誤記しますが、バルハシ湖の北の荒野に住まう騎馬遊牧民だったようです。

 彼らは東のミヌシンスク盆地に住まう堅昆クルグズ、バイカル湖付近に住まう丁令テュルクとともに一種の連合体を形成し、アルタイ山脈から北極海へ流れるイルティシュ川流域の河川交通を抑えていました。シベリアの毛皮をこのルートで持ち込み、ジュンガル盆地やセミレチエ諸国と交易すれば、南の文明国から多くの商品を獲得できるわけです。

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 やがて突厥が興ると、呼掲はこれに服属し、鉄勒テュルクの烏護部となります。また周辺諸部族と連盟して九姓トクズ・オグズ鉄勒となり、740年頃にはウイグル・カガン国を形成しました。しかしイルティシュ川流域にはキメクとキプチャクという別の部族連合が入り込んできたので、オグズ族はこれに押されて南西へ遷り、シル川の北からアラル海とカスピ海の間までの領域を支配しました。これをオグズ・ヤブグ国とも呼びます。

 もといたペチェネグ族はオグズ族に西へ追い出され、9世紀にウラル川とヴォルガ川を渡って北カフカースに侵入し、ハザール・カガン国を脅かしました。ハザールはオグズと組んでこれを黒海北岸へ駆逐し、ペチェネグはマジャル人を西へ追いやることになります。西突厥やウイグルの崩壊により、遊牧民が玉突き運動を起こしたわけです。

 さて、840年にウイグル・カガン国が崩壊し、カルルクとウイグルが混ざってカラハン朝が興ると、オグズはこれに従います。ハザールとカラハン朝とホラーサーンを繋ぐ位置にあり、肥沃なホラズムを擁するこの地は中継貿易で繁栄しますが、ブハラとサマルカンドを中核とするサーマーン朝はカラハン朝と戦い、ホラズムやシル川流域にも進出して来ました。

塞爾柱家

 10世紀初め頃、オグズのクヌク氏族にトゥカクという族長ベグがいました。彼は「鉄の弓テムル・ヤリグ」という異名を持ち、もとはハザールに仕えていましたが、オグズ族と結んで将軍となったようです。彼が逝去したのち息子セルジュークが跡を継ぎましたが、彼はオグズ族の君主ヤブグと対立してアラル海の東へ遷り、961年頃ジェンドという街に居を構えます。そして一族郎党を挙げてイスラム教に改宗しました。彼らは奴隷とならず、自由民のままムスリムとなったテュルクであるため、マムルークではなくトゥルクマーン(ペルシア語で「テュルクに似た者」)と呼ばれます。

 セルジュークとその子らはサーマーン朝に味方してカラハン朝やガズナ朝と戦いましたが、サーマーン朝が滅ぶと一部はアム川を南渡してガズナ朝に仕え、一部はサーマーン朝の残党に従って抗戦を続けました。セルジュークの子にはアルスラーン/イスラーイール、ミカイール、ムーサー、ユースフ、ユーヌスらがいましたが、アルスラーンはガズナ朝に逆らって1025年に投獄され、ミカイールは異教徒との戦いで戦死したため、ミカイールの子チャグリートゥグリルはカラハン朝に従ってガズナ朝と戦うことになります。

 1030年、ガズナ朝の英主マフムードが逝去すると、チャグリーとトゥグリルはトゥルクマーン集団を率いて挙兵し、アム川を渡ってガズナ朝を攻撃しました。1038年までにはメルブとニーシャープールを占領し、1040年にはメルブ近郊のダンダーナカーンでガズナ軍を撃破して、ホラーサーンを征服します。二人は協議して東西に勢力を分けることとし、チャグリーはホラーサーンとその東、トゥグリルは西へ進出します。

 この頃、西イランとイラクはアッバース朝のカリフを頂くブワイフ家が支配していましたが、内紛や有力マムルークの台頭で分裂し、勢力をすっかり失っていました。トゥグリルはこれらを蹴散らし、ホラズムやイスファハーンを平定し、1055年にはついにバグダードへ入城して、カリフから正式に「スルタン」の称号を授かります。ブワイフ朝はシーア派、セルジューク家はスンナ派でしたから、これはアッバース朝を壟断する異端の徒を駆逐する聖戦ということになります(セルジューク家もそう喧伝しました)。

 スルタン/スルターンとはアッバース朝のカリフが君主号の一つとして名乗っていた称号で、「(神に由来する)権威・権力」を意味します。これを譲られたということは、カリフから現世の統治権を委託されたも同然です。トゥグリルはこれ以前からアル=スルターン・アル=ムアッザム(偉大なる支配者)、シャーハンシャー(王の中の王、皇帝)と自ら号しており、貨幣にもその称号を刻んでいます。

 彼の名はバグダードでの金曜礼拝の説教フトバにおいて支配者として告げられ、貨幣にその名と称号が刻まれることが正式に命じられました。これはイスラム世界において「主権を確立した」ことを意味します。ただしカリフは廃位されず、権威の源泉として存続させられました。日本の天皇と摂関家や将軍家、あるいは欧州の教皇と皇帝のような関係です。ハザールでいえばカガンとベグがこのような関係だったようです。

 トゥグリルの兄チャグリーはバルフ、ケルマーン、シースターンを次々と制圧し、ガズナ朝の版図の西半分を奪い取ります。チャグリーの長子カーヴルトはケルマーンの統治を委ねられ、西のファールス、南のホルムズ海峡を抑えました。またチャグリーの娘ハディージャは時のカリフ・カーイムに嫁いでいます。1059年にチャグリーが逝去すると、カーヴルトはそのままケルマーンを支配し、次男アルプ・アルスラーンはホラーサーン総督、その弟ヤークーティーはアゼルバイジャン総督となりました。

 もともとイラン語圏だったこれらの地域は、これにより言語的にテュルク化していきます。現在のアゼルバイジャン語とトルコ語は、トルクメン語と同じくテュルク語オグズ語群に属し、方言程度の違いしかないため互いに意思疎通することができます。先進文明圏の言語であるペルシア語からも多数の語彙がテュルク諸語に入りました。イラン語話者の先祖(アーリヤ人)も紀元前に中央アジアからイラン高原に入っていますね。

皇帝捕縛

 1063年、トゥグリルは73歳で逝去しますが、彼には跡継ぎがいませんでした。そこでチャグリーの子や一族がスルタンの位を巡って争い、1064年にアルプ・アルスラーンがトゥグリルの跡を継ぎます。彼はトゥース出身のイラン人ニザームルムルクを宰相ワズィールとし、広大な帝国の統治機構を整備させました。また9歳の息子マリク・シャーを後継者に指名し、ニザームルムルクをその教育役として、後継者争いを未然に防ぎました。

 アルプ・アルスラーンは即位するや西方遠征を行い、ユーフラテス川を渡って東ローマ帝国領カッパドキアへ侵攻、この地の首邑であるカイセリを掠奪します。また北東へ転じてジョージアとアルメニアを征服し、1068年からはシリアや小アジアに連年侵攻しています。

 ここは東ローマ帝国と、チュニジアからエジプトに拠点を遷したファーティマ朝の国境地帯で、セルジューク朝からすれば異教徒(キリスト教徒)の東ローマより、カリフを僭称する異端(イスマーイール派)のファーティマ朝を優先的に叩きたいところでした。特にシリアでは反ファーティマ朝の独立運動が起き、セルジューク朝に支援を求めています。そのため東ローマとは早めに和平を結び、セルジューク軍の主力はシリアへ向かいました。

 1071年、東ローマ皇帝ロマノスはアルメニア地方を奪還するため数万の軍勢を率いて東へ向かいます。これにはフランク人やノルマン人、ヴァランギ(ヴァイキング)やペチェネグやオグズ、ブルガールなどの傭兵、現地で加わったアルメニア人やジョージア人の兵も混ざっており、士気は高くありませんでした。彼らは小アジアを横断し、エルズルムスィヴァスを経てヴァン湖の北のマラズギルト(マンズィケルト)という要塞を奪還しましたが、アルプ・アルスラーンはすでにこの動きを察知してアレッポから出動しており、3万の騎兵を率いて周囲に陣を張っていました。

 ロマノスは思わぬ大軍に仰天したものの、東方問題を解決する好機だと考え、和平交渉を拒絶します。8月26日に会戦となり、セルジューク軍は東ローマ軍から一定の距離を置きつつ、弓騎兵が近づいて射撃しては離脱するという騎馬遊牧民お得意のパルティアン・ショット戦法で苦しめました。ロマノス率いる中軍は矢の雨を突っ切って進軍し、夕方にはアルプ・アルスラーンの本陣を攻め取りますがもぬけの殻で、士気の低い他の部隊は逃げ散っていました。後方にいた将軍アンドロニコス・ドゥーカスは皇帝と仲が悪く、皇帝を見捨てて勝手に退却したため、皇帝は敵軍に包囲されたまま取り残されてしまいます。さらに「裏切りだ」「皇帝は戦死した」とフェイクニュースが飛び交い、浮足立った東ローマ軍は総崩れとなります。

 セルジューク軍はやすやすと東ローマ軍を撃ち破り、皇帝ロマノスを捕縛しました。アルプ・アルスラーンはロマノスを丁重に扱い、マラズギルトとエデッサ、アンティオキア、ヒエラポリスなどをセルジューク朝に割譲させます。また身代金として金貨1000万枚を要求し、150万枚を頭金として、毎年36万枚を支払うべしと定めました。850を36で割れば23.6ですから、四半世紀近くの支払期間を定めたのです。この頃の東ローマの金貨(ノミスマ)は品質が悪化しつつありましたが、下級兵士の月給が金貨1枚ですから、1枚10万円としても1万枚で10億円、36万枚で360億円となります。

 またアルプ・アルスラーンは息子マリク・シャーにロマノスの娘を嫁がせることとし、多くの贈答品と護衛をつけてロマノスをコンスタンティノポリスへ帰らせました。しかし皇后エウドキアは前の夫との子ミカエルを帝位につけ、ロマノスの帰還と彼が結んだ条約を拒否します。セルジューク朝はこれを口実として東ローマ領に攻め込み、数年のうちにアナトリア半島の大部分を征服することになりました。アルプ・アルスラーン自身はマラズギルトの戦いののち東へ戻り、ホラズムの総督ユースフを攻撃して捕虜とします。しかしユースフは短剣で彼を刺し、アルプ・アルスラーンは42歳であっけなく最期を迎えました。同年にはロマノスも東ローマ軍に捕らえられて両眼を潰された末、失意のうちに世を去っています。

黄金時代

 跡を継いだのは前々から後継者とされていたマリク・シャーですが、まだ17歳でしかなく、宰相のニザームルムルクが実権を握ります。これに対して伯父のケルマーン王カーヴルトが反乱を起こしますが、捕縛され処刑されます。しかしケルマーン王家は存続し、ホラーサーンやルーム(小アジア)でも反乱が起きるなど不安定な状態となったので、都をイラン高原中央部のイスファハーンに遷しました。1077年には王族スライマーンをルームの総督に任命し、ルーム・セルジューク朝が成立しています。シリアには弟のトゥトゥシュを、ホラーサーンには子のアフマド・サンジャルを封じました。

 マリク・シャーはこれら中小の諸侯王をまとめる皇帝スルタンとして、パミール高原から地中海に至る大帝国に君臨しました。アフガニスタン南部のガズナ朝、マーワラーアンナフルの西カラハン朝、セミレチエの東カラハン朝はセルジューク帝国に服属し、かつてのサーサーン朝にも匹敵する世界帝国となったのです。しかしエジプト・アラビア・パレスチナはなおファーティマ朝の支配下にあり、北方ではキプチャク部族連合が勢力を拡大、黒海北岸までを勢力下におさめました。

 宰相ニザームルムルクは各地に学院(マドラサ)や天文台を創設し、第一級の政治家・文化人として活躍しました。詩人にして数学者・天文学者・哲学者のウマル・ハイヤームも彼に仕え、ジャラーリー暦という太陽暦を作成しています。この頃がセルジューク朝の絶頂期でした。

 しかしニザームルムルクはマリク・シャーの妃と後継者を巡って争いとなり、1092年に暗殺されてしまいます。同年にはマリク・シャーも崩御し、後継者争いは全土に飛び火して、セルジューク帝国はまたたく間に瓦解していきます。1095年、東ローマ帝国はこれを好機としてアナトリアを奪還せんと各地から傭兵を募集しますが、これが巡り巡って十字軍の呼び水となり、西方の蛮族が大挙して地中海沿岸に襲来することになるのです。

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【続く】

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